Losing Grip 前






しったい【失態/失体】
人の笑いものになるような失敗をすること。体面を失うこと。 「―を演ずる」






 大失態、というのは、まさに今置かれている状況のことではないかと思う。軍人失格とも言える。または、生き恥を晒すとも。
 そういう言葉を頭の中で羅列しながら、ハボックは遮られた視界の中、苦々しい思いで鉄の味のする唾液を吐き捨てた。






  事の始まりはブレダが極秘裏に掴んだ情報だった。かつてハボックらの上司が潰した、赤だか、黄色だかなんだかって名前の東部過激派の残党が、その上司の命を狙って暗躍しているらしいというもので、全てが不確定の情報だったため、ハボック達は上司にも気取られぬよう、調査を開始したのだ。報告義務を怠ったのは、偏にデマかもしれない未確認情報で、それでなくても多忙な上司の心労を増やしたくなかったからにすぎなかったが、ばれれば烈火の如く叱責されることは目に見えていた。
  調査を開始して数日後、一人で上司の家の付近を見回りしている際、家の様子を窺う不審人物を発見し、職質をかけたところ不審人物は逃走。それを路地裏まで追いかけ追い詰め、遮二無二反撃してきた相手をあっさりと取り押さえチェックメイト、としようとしたまさにその時、後頭部に鈍い衝撃が走り、そのままブラックアウト。






  そして、今に至る。
  気がついた時には両手両足が拘束されていて、全く身動きの取れない状態だった。目隠しをされていて、周囲を窺うことさえできない有様だ。ただ、周囲の気配と匂いから、恐らくは廃屋または倉庫のような場所の床に転がされていること、少なくとも自分以外に2、3人の人物がその場にいることが分かった。
 即座に自分が今置かれている状況の意味することを理解したハボックは、絶望のあまり呻き声を漏らした。捕まえるはずの敵に自分があっさりと捕まった。それが意味することはあまりにも大きい。

  殴られた時に口の中を切ったのか、口腔に血の味が広がっている。舌で探ってみると頬の内側がざっくり切れているのが分かった。恐らくは倒れこんだ時に切ったのだろう。
  しかしハボックにとって、そんな傷の痛みより、精神的ダメージの方が遥かに大きかった。仮にも軍人、しかも上司のボディガードも兼任するフィジカル面担当の軍人でありながらあっさりと敵の手に落ちるなど言語道断の大失態だ。眼前の敵に目をやり周囲への警戒を怠るなど、軍人として在りえない醜態だった。ブレダの持ってきた不確定の情報が確かなものだったことはこれで証明されたが、己が捕まっていては元も子もない。むしろ上司への報告義務を怠っていたことも考えると、結局自分のしたことは事態を悪化させただけだった。

 マジでありえねぇよ。

  正直頭を抱えたくなったが、両手が縛られた状況ではそれも敵わず、代わりにハボックは血の味の濃い唾液を吐き捨てた。

「おい、気付いたみたいだぜ」

 少し離れた所から男の声が聞こえた。別の場所から椅子を引いて立ち上がる音がして、その人物がそのまま自分の方へ歩いてくるのが、ミシミシと床を鳴らす音で分かった。
  視界が塞がれている為、気配や音に耳を集中させていると、突然髪を掴まれ引きずり起こされ、ハボックは漏れそうになった呻き声を、なんとか飲み下した。

「ゆっくりなお目覚めだな、ハボック少尉さんよ」
「………へぇ、俺の名前知ってんの?もしかして俺って有名人?」
「てめぇ、ロイ・マスタングの犬だろ。奴のことはしっかりと調べ上げさせてもらってんだよ。たっぷり礼をさせてもらわなきゃいけねぇんだからな」
「なんだ、あんたらストーカーなのかよ。野郎が野郎のストーキングするなんざ、気持ち悪いだけだぜ」

  瞬間、見えないところから不意に殴られ、ハボックは倒れこんだ。来ると分からず堪えていなかったせいで口の中がまた切れたのか、新たな血の味が広がり、再度それを吐き捨てる。今度は胸倉を掴まれ、引きずり起こされた。

「あんまりふざけたこと言ってんじゃねぇよ。てめぇの置かれてる状況、分かってんのか?」
「一応まぁ軍人なんで、状況把握能力は長けてるつもりなんだけどな」
「へっ、軍人が人質になってりゃ世話ないぜ。ホントは副官の女でも人質にとろうと思ってたんだがな。そっちから勝手に飛び込んできてくれたおかげで、こっちは奴に罠を張る手間が省けたぜ」

 いや、それはまず無理だろうと思いながらも、他は相手の言っていることがもっともだったので、ハボックは押し黙る。それを見た男が嘲笑するのが気配で分かった。うるっせぇよ、馬鹿野郎。

 己の能力の過信による失態。職務怠慢のそしりを免れようもない。自分を取り囲んでいる男達は足音から推測するに計3人。恐らくは部屋の外にもさらにいるに違いない。しかし、不思議なほど恐怖心はなく、むしろこれから先の展開を考えると、今すぐにどうとでもしてくれという心境だった。眼前にいる男達よりも、失態による進退問題よりも、今の状況を招いた自分に対する上司の叱責の方がよほど怖かった。

  消し炭にされんのかなぁ。焼き加減はレアぐらいにしといてくれりゃ、いいけど。

  実際のところ、叱責より怖いのは、自分に向けられる失望の眼差しだった。こんな愚行であの人を失望させてしまうのかと思うと、それだけで泣けてくる。よりにもよって、自分が足を引っ張ることになるとは思ってもみなかった。

  そんな心中なぞ知るはずもない男の1人に突然鳩尾を蹴り上げられ、ハボックは嘔吐くのをギリギリのところでなんとか堪えた。「さっきはよくもやりやがったな!」という科白から察するに、路地裏でハボックが伸した男なのだろう。
 相手を無抵抗の状態にして殴って、粋がってんじゃねぇよな。そんなことを思いながら、所構わず蹴り上げられるのをひたすら耐える。視界が遮られていると、どこをどう護ればいいのかさえ分からない。他2人が傍観しているらしいのがせめてもの救いだった。

「おい、それくらいにしとけよ。ロイ・マスタングが来る前にくたばらせんじゃねぇぞ」

  散々好き勝手やらせた後、リーダー格らしい男が言うと、渋々ながらやっと男の気配が遠ざかった。止めるならもっと早くに止めろ、とか、この程度でくたばるかよ、とか、色んなことがグルグルと頭を廻る。ただ、ひどく吐き気がした。痛みより何より、自分の失態に吐き気がする。

  リーダー格らしい男が煙草を点けるのが気配で分かった。瞬間、煙草の匂いが鼻につく。堪らなく、煙草が吸いたくなったのは性としか言いようがない。

「俺達はなぁ、ハボック少尉さんよ」
  胸倉を掴まれ引きずり起こされ、上半身を壁に押し付けられる。

「ロイ・マスタング大佐殿には色々と世話になってるからなぁ、礼をちゃんとしなけりゃいけないって思ってたんだよ。軍部にじゃねぇ、奴にだ。あの野郎が来てからこっち、散々な目にあわされてるからな。てめぇはその餌になってもらって奴を誘き寄せる。逆らったらどういう目に合うかは充分に分かっただろ?大人しくしてな」
「あのな、軍人が軍人への人質になるって本気で思ってんのかよ。応じるわけがないだろ?」
「その時はてめぇをぶっ殺して奴ン所に送りつけるまでよ」
  そう言って男が笑うのが気配で分かった。

  むしろそっちの方がマシとさえ思う。大総統を目指す上司の補佐が自分の使命と信じてここまで来た。自分のミスで足を引っ張るなど、絶対にあってはならないことだ。上を目指す彼にとって、どんな瑣末な失態も命取りになる。ましてや直属の部下が弱小テロリスト軍団に捕まるなど、致命的な失態だった。

  突然、胸元に激痛を感じ、ハボックは思わず呻き声を上げた。一瞬遅れてすぐに煙草を押し付けられたのだと気付く。人の肉が焦げる、嫌な匂いがした。

「おいおい、これぐらいで痛がってんじゃねぇよ。てめぇんとこの御主人様の焔はこんなもんじゃねぇだろ?俺も昔食らったことがあるんだよ。おかげで利き腕が随分醜くなっちまったじゃねぇか」
「……っ……てめぇの、行いが悪いんだ…ろ!ざまぁねーよな。……つーか、人質ってんならもう少し丁重に扱えよ。商品価値が下がるぜ」
「いいんだよ。どうせ生かして帰すつもりなんて毛頭ないからな」
  低い嘲笑と共に再度、煙草を押し付けられる。今度は歯を食いしばり、呻き声一つ漏らさなかった。


  その瞬間だった。ハボックは身の毛のよだつような殺気を感じ、反射的に身を竦めた。次の瞬間、すさまじい爆音が響きわたり、部屋全体が軋むような音を立てた。

「おい!なんだ!どうした!」
  男達が慌てて立ち上がる気配がする。ハボックは身を竦めたまま、動くことができなかった。

「ロイ・マスタングが―――!!」
  すごい勢いで扉が開かれ、飛びこんで来た男が口を開いたが、言い終わる前に新たな爆音が響き、今度はすさまじい熱風が吹き込んできた。焔と爆風に吹き飛ばされた男が、壁に激突しそのまま崩れ落ちる音が聞こえた。
  視界が遮られていても、そこに自分の仕えるべき上司が居ることは、熱風の中でさえ凍て付くような空気と、恐ろしいまでの殺気と威圧感とで充分に分かった。むしろ、視界が遮られていることに感謝さえしたくなった。今の上司を直視する自信は、ない。

「私の部下がお邪魔しているようなので、迎えに来させていただいた」
  まるで神託を告げるような、厳かなその口調は、聴く者全てを凍りつかせるだけの威力があった。ハボックは心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じ、身動き一つできなかった。
  そこにあるのは怒りだった。全てを凍て付かせる、確かな怒りだった。かつて、普段無能とさえ揶揄される上司がここまで本気で怒ったのを見たことがない。

「く、来るんじゃねぇ!!」
  ヒステリックに裏返った声がしたかと思うと、いきなり首元を掴まれ、引き寄せられる。完全に圧倒され、さっきまでの余裕をすっかりなくし、いっそ哀れなほどに狼狽えた男が、こめかみに銃を押し付けてくるのが分かった。しかしそれを哀れむような余裕は、ハボックにもなかった。
  無駄なことをするなと叫びたくなる。どうして器が違い過ぎることに気付かないのか。眼前にいるのは絶対的な支配者だ。こんな矮小なテロリスト如きが勝てる相手ではない。それをハボック自身も思い知らされた。

「て、て、て、てめぇ、コ、コイツがどうなってもいいのか!!いいから離れろ!!ぶっ殺すぞ!!!」
「できるならやってみるがいい。私の目の前で、これ以上私の部下を傷つける勇気があるならな」
  遮られた視界のすぐ横で、男が無様な呻き声を漏らすのが聞こえた。こめかみに押し付けられた銃が小刻みに震えているのが分かる。蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。
  それこそ潰された蛙のような呻き声を上げながら、すぐ横で蹲っていた男達が這うようにして逃げようとした。瞬間、爆音と共に熱風が起こる。惨めたらしい叫び声と、焔に焼かれる肉の匂いが、閉ざされた視界の中ハボックに届いた。

  既に意味をなしていない言葉を振りまきながら、ハボックを捕らえていた手が離れ、銃口が上司に向けられるのが分かった。反射的に、男とは反対の方へ身を投げる。次の瞬間、新たな爆音が響き、隣に居る男が絶叫するのが聞こえた。

 斯くして、彼らなりに様々な策略を練っていたであろうテロリスト集団は、ほんの数分の間に壊滅させられてしまった。たった1人の錬金術師によって。

 言葉もなくし、茫然自失のまま座り込んでいたハボックは、何かが引きずられる音を耳にし、我に返った。引きずられる音と共に呻き声が移動していくから、テロリストが上司の手によって引きずられていっているに違いなかった。足音から察するに、隣室に次々とテロリスト集団が放り込まれているのだろう。その意図も意味も理解できないまま、手足を拘束されたままのハボックは、なす術もなく座り込んでいるしかなかった。


 ちょうどその時、車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。建物の前で車が止まり、ほどなくしてバタバタと足音が響いてきた。

「マスタング大佐!大丈夫ですか!?」
  その声にハボックは身を強張らせた。明らかにそれは軍部の人間の声だった。しかもハボックの知らない声だ。テロリスト自体は大佐が一瞬で制圧してしまったようだが、ハボックの失態は取り消しようのない事実だった。

  しかし、いつまで待ってもハボックのいる部屋に踏み込んでくる気配はなかった。高まる緊張感の中、耳を澄ますと、隣室でマスタングと軍部の人間が交わす言葉が聞こえてきた。これで全てだ。他の部屋にはもういない。では、こいつらを全て連行しますね。現場検証はどうしましょう。もうすぐ私の部下が来る。私はそれまでここに待機するので、君達は先にそいつらを連れて行ってくれ。お一人で大丈夫ですか。心配ない――――――。

  会話を聞く中で、先ほどのマスタングの行動の意図を悟り、ハボックは脱力すると同時に自己嫌悪感で項垂れた。会話はまだ続いていたが、それを聞く気にはなれなかった。
 おそらく、軍部の人間は自分が人質になったことを知らないのだろう。どうやったのかは知らないが、それを知った上司が、己の失態をフォローするために出向いてくれたことは明白だった。

  何やってんだ、俺――――。

 しばらくバタバタと音がしていたが、テロリスト達を全て収容し終わったのか、マスタングに対する敬礼の声と共に、軍部の車が去っていく音が聞こえた。これで今ここにいるのはハボックとその上司だけになった。ここと言っても、ハボックはいまだに自分が何処にいるのかさえ知らない。無様にテロリストに捉えられ、上司が制圧、捕縛する横で転がっていただけだ。しかも己の失態を上司にフォローまでしてもらって。あまりの情けなさに泣きたくなった。
  静寂に支配された室内に隣室から戻ってきたであろう上司の足音が自分に近づいていることを知り、ハボックはすっかり狼狽えた。足音が確実に自分に近づいてきていることは分かったが、身動き一つすることができない。
  足音が目の前で止まる。座り込んでいる自分と同じ高さまでしゃがむのが分かった。

「ずいぶんと男前にされたもんだな」
  その声はいつもの聴き慣れたトーンのもので、ハボックは一気に脱力した。途端に罪悪感が改めて込み上げてきて、ハボックは俯くしかなかった。

「あの……ホント…………すいませんでした」
  返事はない。けれど、視線が自分に注がれていることは分かり、居た堪れない。

「俺、一人で先走っちゃって……大佐に迷惑かけるつもりはなかったんすけど………」
  だんだんと歯切れ悪く、小さい声になる。つもりも何も、迷惑をかけたことは明白だった。合わせる顔がないとはこのことだ。

  しかし、突然、唇に何かが触れて、ハボックはぎょっとなった。それが離れた後で、すぐにマスタングのそれと気付く。状況についていけず、心拍数が一気に跳ね上がるのが分かる。

「すんだことはどうでもいい」
  ハボックの耳に心地よい、バリトンの声が響く。「でもっ」と、ハボックが考える前に口を開こうとすると、何かがそれを遮った。先ほどと同じように、少し遅れてそれがマスタングの指と知る。

「そんなことより」
  遮られた視界の中、いつの間に顔を近づけたのか、耳元でマスタングが囁いた。

「血の匂いを嗅ぐと興奮しないか」