楽園 3
それから男は、三日と空けず通っては口説いてくるようになった。私の中での答えは
変わるはずがなかった。しかし、頻繁の訪れに正直戸惑いがなかったとはいわない。
何度誘いを断っても男は意に返さず、次の日も同じことを繰り返した。
自分がそれほどの腕ではないことは分かっていた。同程度の腕のバーテンならいくら
でもいるだろう。それにも関わらず、ここまで固執してくるのは何故なのか。好条件
をにべもなく断ったから、逃げる者を追いたくなるような心理が働いたのだろうか。
どう誘われても、不可能なことは不可能だ。そう思いながらも日に日に男の存在が私
の中で大きくなりつつあることを認めざるをえなかった。
扉の音で、私は意識を外界へと向けなおした。入ってきたのは、まさに今考えていた
川中だった。僅かばかりの動揺を、手にしたナプキンへと折り込む。思考をその内へ
と押し込めることには慣れていた。
川中が準備中の札をまったく気にした様子がないのはいつものことだ。雰囲気がそう
させるのか、不思議とそれが気に触ったことはない。
「ジン・トニック」
勝手知ったる様子でスツールに腰かけると、川中が注文してきた。私は頷くと、カウ
ンターに入り、ジンの瓶に手を伸ばした。いつものジン・トニック。さっきまで川中
のことを考えていたからだろうか、何故か瓶を持つ手にわずかばかりの緊張が走って
いるのを感じた。一体何に動揺することがあるというのだろう。
川中はいつもと何処か様子が違っていた。あの、熱を帯びた不躾なまでの視線を感じ
ない。いつもの力を失ったその目にあるのは迷い、困惑、苛立ち、そんな類の定まり
付かないものだ。
何かの揉め事に巻き込まれているのか。
しかもそれは川中の預かり知らぬところで起きているに違いなかった。恐らくは望ま
ぬ形で、気付かぬ内に巻き込まれているのだろう。渦中に居ることを自覚しているの
なら、この男はもっと真っ直ぐな、もっと激しい瞳をしているはずだ。己の位置が定
まり付かないからこそ、熱を失っているに違いなかった。
いつものように口説いてくることもない川中の表情にはいつも以上に翳が見える。
いつ頃だったか、少年のように笑うその合間に、時折はっとする暗さを覗かせること
に気付いた。闊達とした笑顔でも、熱の篭った視線でもない、もっと別のものだ。そ
れはまさに、闇を見たことのある者のものだった。悔恨の念を抱くことさえも許され
ない深淵を覗いた者には、決して消えない標が刻まれる。私は鏡と対峙する度にその
標とも対峙してきた。
川中の中にその標を見た時、私はひどく既視感に襲われた。
決して真っ当な道を歩いてきたとはいえない自分と同じ標を眼前で笑う男に見た時、
なんとも奇妙な気持ちになったのを覚えている。親近感とでも呼ぶにはあまりに自虐
的だと思う一方で、何処か安らぎを得ている自分が腹立たしくもあった。
それでも、その翳を隠し、少年のように屈託なく話すこの男を見ていると、私もつ
い、自然と笑みを浮かべてしまう。それがこの男とのいつもの会話だった。
川中はたわいもない話を続けている。それに耳を傾けていると、店の前に停まる車の
音が聞こえた。客かと思いそちらに意識をやるが、店に入ってくる気配はない。
どちらへの客か。
一瞬、そう思ったが、私への刺客がこんな無用心に気配を丸出しでやってくるわけも
ない。ならば川中への客だろう。川中の中で自身の位置が定まるのも近いようだ。
店内からは、外にいる者の程度は測り知れなかった。とりあえず中に伝わってくる程
の殺気はない。それすらも隠せる程の者である可能性も否定はできなかったが、気配
を完全に掴めることを考えるとそれ程の者ではないだろう。相変わらず店に入ってく
る気配はないことを考えると、店内に居てやり過ごすことが得策であるように思え
た。
その時、何も気付いていないのか、「また来るぜ」と川中が立ち上がった。
「川中さん、いまお出にならない方が」
反射的に声をかけたが、川中はそのまま手を振ると出ていってしまった。千円札一
枚が、所在無げにカウンターに残されていた。器の大きさを感じさせる割に、あまり
に無用心なその行動に、私は軽く溜め息をついた。
逡巡している時間はあまりない。出て行けば面倒なのは分かっていた。そろそろ廻状
が廻りきった頃だろう、相手の程度によっては私の居場所が割れる可能性もある。刺
客を恐れるわけではないが、唯の客のために自らを危険に曝すのは得策ではなかっ
た。川中が店を出て行った時点で、もはやこの店の預かり知らぬところの話だ。一介
のバーテンが口を挟むことではない。
そう思いながらも私はカウンターを上げ、傘を片手に入口に向かっていた。
賢くはないな、俺は。
苦笑しながらも不思議と悪い気分ではない。あの男だからかと思い、また苦笑す
る。結局のところ、私はあの男を唯の客とは思っていないのだろう。たとえそれが一
方的なものだとしてもだ。