楽園 2







男は川中と名乗った。その名はこの店の持ち主である女から聞いていた。十年ほど 前、東京から流れてきて、飲み屋等の経営の事業を始め、成功した男だ。なるほど、 その風格は己の力でその道を切り開いてきた男のものだった。


 女がしきりに男のことを口にしていたので、その日、男が店に来たことを伝えると、 「私がこの街で最初に勤めたのがあの男の店よ」と女は笑った。「そのことをあの男 に伝えておいて」と意味ありげに女が言った、その言葉の意味することには興味はな かった。



 その日から男はちょくちょく顔を出すようになった。大概一人でふらりと現れると、 いつもジン・トニックを注文した。拘りでもあるのかと思いながらもそれを厭味に感 じたことはなく、むしろそれはひどく男に似合っているようにさえ思えた。

 稀に、男はひどく顔色の悪い、長身の男と連れ立ってくることがあった。長身痩躯で あるにも関わらず、顔だけがむくんだその男は、話の流れから弁護士であることが分 かったが、特に興味が湧かなかった。唯、いつも一人の男が、唯一連れ立ってくる相 手がその男だっただけだ。唯それだけのことが、私の心に僅かばかりの波を立ててい た。


 何をそんなに気にする必要があるのだろう。なんということはない、街の権力者の一 人というだけの、唯の客だ。しかし、それだけの男ではないという、直感にも似た確 信が、男を見る度に何故か付きまとっていた。



 男が店に通うようになって、何度目のことだっただろうか、ある日、男は私の目をい つものように不躾なまでに真っ直ぐ見つめると、「俺の店で働かないか」と言った。

 提示された条件は破格のものとまでは言わないものの、かなりの好条件だった。「新 しくクラブを開くもんでね」と笑う男の言葉に惹かれなかったわけではない。しかし 私の答えは問われた瞬間から決まっていた。私の存在は、もはや死への階段を上りき るまでの残影にすぎないのだ。陽のあたる場所に行くという選択は、私の中には存在 しえないものだった。

「ありがたいお言葉ですが、お断りさせていただきます。この店を離れる気はありま せんので」

 少しの思慮も挿むことなく応えた私を、男は一瞬驚いた様に見つめたが、次の瞬間 少年のように破顔すると、「俺は君がいいんだよ」と言った。

 さすがに予想しえなかった応答に、私は言葉を失った。落ち着いて考えればなんの理 屈も通っていない、子供の我侭のようなものだ。しかし、だからこそなのか、私は 「また来るよ」と笑って席を立つ男を、言葉もなく見送るしかなかった。