楽園 1







雨が降っていた。昨夜から続いている霖雨だ。波の音と、雨の音、それに時折通る車 の音だけが聞こえる。雨のせいで、時間のわりに窓から覗く外の情景は薄暗かった。


 もうすぐ開店時間だ。ナプキンを折りながら、私はぼんやりと、己とある一人の客に ついて、思いを巡らせていた。




私がこの街に流れてきたのは、半年ほど前のことだ。それは決して偶然ではなく、必 然だった。かつて「藤木」という名の男が居た街、もう二度と言葉を交わすことので きない、今では己の中にだけに存在する友の居た街だ。東京を離れる段になった時、 何故かそこが自分の行くべき場所だと思えた。それは決して感傷ではなく、仁義を捨 て、私情を取った私が居着くには相応しい場所だと思えたのだ。


 親兄弟を殺した。そのことに対する後悔は微塵もなかった。あの時拳銃を握る私の手 に震えはなく、トリガーはなんの躊躇いもなく引かれた。その行為は同時に私を殺す ことは分かっていた。それでもそれを実行し、結果として私を失った私が此処に居 る。


 「藤木」と名乗り、小さな店でシェイカーを振る生活が始まった。あの日から私は、 唯、生きているから生きてきた。私の生を奪おうとする者に、抵抗なくそれを与える つもりは毛頭なかった。だが、後悔も慙愧の念もない代わりに、生への執着があるわ けでもなかった。全てがどうでも良かった。思い残すことなど何があるというのだろ う。全てを捨てて此処に来たのだ。後は死への時が満ちるまで、無為に生きるだけ だった。




 男が目の前に現れたのは、まさにそんな時だった。  最初から妙に独特な空気を纏っていた。私と同じくらいの年齢であろう、大柄で屈 強そうなその躯は、おそらくラグビーかアメフトのようなスポーツをやっていたであ ろうことを窺わせていた。ひどい風雨の中、ふらりと現れた男は、その不躾なほど容 赦の無い眼差しを隠そうともせず、酒を作る私の手元を見つめていた。そして、黙っ て差し出したジン・トニックを一口飲むと、ただ一言、「旨いな」と白い歯を見せて 笑った。


 それはまるで少年のような笑みで、私は瞬間目を奪われ、そして同時に自分のそんな 反応に驚きを覚えた。まったくの初対面の人間に、警戒心もなく見とれたのなど、 いったい何時ぶりのことなのだろう。いや、そもそもそんなことがかつて私にもあっ たのだろうか。全てを闇に置いてきたようで、私の中からは、そんな記憶さえ抜け落 ちていた。