かたくなに閉じているのはさびしさのうらがえしだと専門家が説く









あの眼が気に入らなかった。





目の前の書類を機械的に処理しながら、ヴェインは不快感を拭えずにいた。
あの、全てを見透かすような眼。最後まで、逸らされることがなかった。自分の置かれている立場を理解していないわけではない。理解した上での、それでも屈することを潔しとしない、真っ直ぐな眼だった。それが、気に入らなかった。
斬るつもりはなかった。いや、違う。むしろ殺すつもりだったのかもしれない。気付いた時には躊躇なく剣を振り下ろしていた。





―――――それは、誰の話だ?





放たれた言葉が耳にこびりついて離れない。あの眼、あの口調、何もかもが癇に障る。あの眼、あの口調、何故か全てが、かつて己が葬り去ったものと重なる。似ているはずもないのに。長らく思い出すこともなかった、思い出したくもないことが、次々と思い出される。自分の名を呼ぶ、今は亡き者の声が聞こえる。






―――――ヴェイン、何故なんだ?
―――――何故―――――――――――――――








忌々しさに舌打ちをし、思考を遮断させる為にグラスを煽った。過ぎ去ったことなど、どうでもいい。過去を振り返っている時間など、今の自分には、ない。やらなければいけないことが山とある。
あの男が、何を知っているわけでもない。敗者の戯言に煩わされるなど、愚の骨頂ではないか。
再度書類に手をかけた時、扉の前で足音が止まり、ノックする音が聞こえた。


「入りたまえ」
「失礼します」


一瞬の間の後、はたして自分の呼んだ者が扉を開け、そこに立っていた。
ある意味、今一番会いたくて、一番会いたくない者かもしれない。先ほど自分を不快にさせたのと同じ顔がそこにはあった。無機質な鎧で身を包み、その手にジャッジマスターの象徴ともいえる兜を携えている。作戦の為に伸ばされていた髪は、今は既に以前と同じように切り揃えられていた。
満面の、そして相手にもそれと分かる芝居がかった労いの笑みを浮かべ、迎え入れた。この男を見ると、どうして加虐心を駆り立てられる。


「ようやく戻ったか。極秘の事ゆえ、手間を取らせたな。此度の件、卿の働きに拠るところが大きい。いや、卿なくして為すことのできぬ事であった。まことにご苦労であったな」
「恐れ入ります」
「心身共に疲れていよう。しばらくの間、暇を出す故、ゆっくりと過ごすがいい」
「それよりもヴェイン様」


こちらが焦らしているのを知ってか知らずか、逸る気持ちを隠そうともせず、ガブラスが尋ねた。


「あの男は、今、何処に?」
「あの男、とは?」
「ローゼンバーグ将軍です」
「ああ。卿の兄上のことか」


いらついたように、ガブラスの形の良い眉がくっと顰められる。それを見て、ヴェインは薄く笑みをこぼした。
この男は、まったく笑いが出るほどに、いつもこちらの期待通りの反応を見せてくれる。あの不快な視線とは大違いだ。
褒美に望み通り、哀れんだ演技をしてやろう。




「卿の兄上は既に処刑された」




一瞬にして血の気が引いていくのを目の当たりにし、ヴェインは笑みを零すことを禁じえなかった。
ああ、まったく、予想通りの反応をしてくれる。
ガブラスの手が椅子にかかる。


「―――――――今、何と言われましたか?」
「まことに残念なことだが、卿の兄上は既に処刑されたのだよ。国王暗殺犯としてな」
「――――――――そんな、ばかな――――」
「残念なことではあるが、それが事実だ」
「それでは、それでは話が違う!私の手で殺させてくださいと、確かにお願いしたではありませんか!!」


ガブラスが我を忘れたように叫んだ。顔面蒼白とはこのことだ。
その様はあまり滑稽で、むしろ同情さえしてやりたいほどだった。
「話が違う」などと、どうして言えるのだろう。己が欠片も信用していない男の言葉を、この男は真に受けたというのか。それこそ愚かというものだ。
飼い犬のくせに餌を投げられただけで即座に食い付いた。それだけでなく、今は自分に割り当てられた役を演じることさえできない。躾がなっていないにもほどがある。




「此度の件、万が一にも外部に漏れるようなことがあってはならないのだ。なにしろ、国一つがかかっている。窮鼠猫を噛むという。小煩い鼠どもに尻尾を掴まれては、元も子もないではないか」
「しかし!」
「確かに卿の願いは聞いたが、必ず叶えられるとは約束していなかったはずだが。今言ったように、事は急を要した。卿が釈放されるのを待っている余裕はなかったのだよ」


場違いなまでに穏やかな口調で説明をしてやる。椅子を掴んだ腕、それに足が震えていた。怯えたような眼は虚空を彷徨い、既に力を失っているのが見て取れる。
この男、自分の置かれている状況を理解している。そして、それに屈することを既に選んでいる。





負け犬め。





 突如、腹の底から侮蔑の思いが湧き上がる。所詮は愚かな飼い犬にすぎない。過去を引きずり、そのくせ力には屈し、表面だけで尻尾を振る無様な負け犬。自分の意思を持たず、未来を拓く力もない。そのくせ私情で兄を殺し、国を滅ぼす。


 不意にあの不快な視線を思い出した。どこまでも真っ直ぐな、忌々しいあの眼。眼前にあるのは、同じ顔で、力の前に屈するしかない負け犬の眼。
 どちらもたまらなく不快だった。






「では、あの男の亡骸は―――――」
「皆まで言わせるな、ガブラス。ジャッジマスターたる卿と同じ顔をした亡骸を、そのままにしておくとでも思うのか」


もはや、不快感しかなかった。目の前にいる男の存在自体がひどく煩わしい。
それだけではなかった。ないはずの視線を感じる。聞こえないはずの声が聞こえる。
もう、何年もなかったこと。忘れてさえいたことのはずだった。






―――――お前は何も分かってはいないだけだ、ヴェイン。
―――――ヴェイン、何故なんだ?
―――――何故、兄を手にかける?







「兄を陥れたこと、よもや今更、後悔しているのではあるまいな」
「いえ、そのようなことは――――」
「なら、良い」




後悔などできるはずがない。そんな生易しい道ではない。その覚悟さえできていなかったのだとしたら、余りに、愚かだ。






―――――それは、誰の話だ?






聞こえる声を遮断する。ヴェインは卓上のペンを取り、己の職務を再開した。こんなところで時間を潰すわけにはいかない。やらなければいけないことが山とある。


眼の前の男は立ち尽くしたままだった。
愚かな飼い犬。何の覚悟もできていなかった。
無様な負け犬。




「卿の兄上は、敵ながら見事な最期であったぞ。誉れ高き将軍の名に相応しいものであった」
「―――――そう、ですか」
「此度の任務はご苦労だった。分かっているとは思うが、くれぐれも他言のないよう。もう下がっていい」






ガブラスが無言で頭を下げ、出て行くのが気配で分かった。
扉が閉じられる瞬間、確かに香ったのは、咽返るような血の臭いだった。







fin.









題引用:東直子



「いいよ、って〜」のシーン、ヴェインバージョン。ヴェインは基本的には過去に囚われない強さを持っていると思うのですが(それが余計に痛いのですが)、このシーンはそれぞれ過去の声に囚われた2人の対比という感じで。ガブとヴェインは似て非なる存在だと思うのです。
2007/03/30