いいよ、ってこぼればことば走り出すこどもに何をゆるしたのだろ






鏡に映った自分の顔を見つめ、ガブラスは大きく息を吐いた。さっきまで、肩まで長さのあった髪は既に綺麗に短く切りそろえてある。長年見慣れた顔がそこにあった。
 17年ぶりだ。あの顔を見たのは。鏡に映したように造作は自分と同じ顔。しかし、己の顔と似て否なる、一番遠い顔。17年間、片時も忘れたことはない。


 ――――――遠くにいても、お前を守るから、必ず


 耳にこびりついたまま離れたことのない言葉。結局、その約束が守られることはなかった。守られないことなど、最初から分かっていたのだ。あの男は全てを捨て、一人、逃げたのだから。

 それでもなお、心の何処かでその言葉に縋り付いていたのは事実だった。魂の片割れが、いずれ自分の元に帰ってくるのではないか、心のほんの片隅でそう、思っていた。
 それは、祈りであったのかもしれない。ある種の信仰ですらあったかもしれない。そう祈るに足る時間を、この世に生を受けたその瞬間から、共に過ごしてきていたのだ。



 国が滅び、国を追われ、母の故郷であり敵国である帝国に流れ着いた。そこで一人、母を看取った時、約束が違たれたことを悟った。
 そして、その時までやはり信じていたのだと気付き、そんな自分を嗤うしかなかった。

 消えることのない憎悪が生まれた。それがすべての原動力となり、此処まで這い上がってきた。いつか必ず報いを受けさせてやると、そう胸に誓い今日まで生きてきたのだ。







 その待ちに待った報いの日がやっと来た。
 そのはずだ。
 なのに、この虚しさはなんだと思う。



 全てはあの目のせいだ。
 視線が絡み合ったのはほんの数秒のこと。しかし、驚愕で見開かれたその目には、絶望と共に、確かに哀れみがあった。
 それは、幼い頃から自分を見つめていたあの目と同じだった。
 悪いことをした時に向けられる、哀れみをのせた、困ったような、教え諭すようなあの目。
 変わらない、愛情のこもった目。
 最後まで「愛している」と言っていた、あの目。


 ――――――ほら、ノア、何やってるんだよ。そんなことしちゃ駄目じゃないか。しょうがないな。




「ふざけるなっ!!」

 ガブラスは眼前の鏡を殴りつけた。鍛えられた拳によって、鈍い音と共に鏡に亀裂が入る。しかし、細かい破片、一つ一つに映る多数の瞳が、嘲笑うかのように自分を見返していた。
 低く呻くと、ガブラスは再度鏡を殴りつけた。破片はばらばらと床へと零れ落ちた。


 こんなはずではなかった。
 こんな虚しさを味わいたかったわけではなかったはずだ。
 しかし、ではどうなることを期待していたのだと思うと、今となっては思い出せなかった。
 憎悪を原動力にここまで生き、この先にいったい何を期待していたというのか。


 こんなはずではなかった。
 ただ、ヴェイン・ソリドールに囁かれただけだ。

「兄上に復讐をしたくないか?」と。

 その時、長年胸の奥に凍り付いていたはずの疵が、ひどく疼き出したのだ。
 復讐を果たすべきだと。
 必ず守ると言い、何も守ることもできなかった、あの男に。
 愛していると言いながら、自分を裏切ったあの男に。
 必ず、報いを受けさせるべきだと。



 早くあの男に会わなければいけない。あの男は国王暗殺の咎で早期に処刑されることが決まっている。裏切り者の汚名を背負い、誉れ高きローゼンバーグ将軍はその名誉を地に堕として処刑される。


 今回の策略を実行するに当たって、ガブラスはヴェインに一つだけ条件を出した。
 必ず、この手で殺させてくれと。
 過去の遺恨は自分の手で断ち切らなくてはいけない。ずっとこの耳にこびりついたままの言葉を、自らの手で切り捨てなければならない。そうしなければ疼き出した疵が致命傷となり、いつか自分を殺すだろう。

 ガブラスは床に散らばったガラスの破片を軍靴で強く踏みしめると、踵を返し、主の下へと向かった。






 執務室に向うと、黒髪の主は書類の処理を行っているところだった。入ってきたガブラスを眼に止めると、芝居じみた労いの笑みを浮かべ、徐に立ち上った。

「ようやく戻ったか。極秘の事ゆえ、手間を取らせたな。此度の件、卿の働きに拠るところが大きい。いや、卿なくして為すことのできぬ事であった。まことにご苦労であったな」
「恐れ入ります」
「心身共に疲れていよう。しばらくの間、暇を出す故、ゆっくりと過ごすがいい」
「それよりもヴェイン様」

 逸る気持ちを抑えながらガブラスは尋ねた。


「あの男は、今、何処に?」
「あの男、とは?」
「ローゼンバーグ将軍です」
「ああ。卿の兄上のことか」

 今気づいたとでも言わんばかりのヴェインの言い草が、今はひどく癇に障った。それを知ってか知らずか、ヴェインは薄く笑い、ガブラスを見やる。
 その翠色の眼は、ひどく芝居じみた、憐れみの色をしていた。その眼を見た瞬間、ガブラスはひどく、嫌な予感がした。
 その予感を肯定するように、ヴェインを大きく息を吐くと、その言葉を告げた。




「卿の兄上は既に処刑された」




 急に地面がなくなったかのような浮遊感に襲われ、ガブラスは思わず眼前にあった椅子に手をかけた。ヴェインは口元に哀れみの笑みを浮かべたまま、動じた風もなくその様子を眺めていた。

「―――――――今、何と言われましたか?」
「まことに残念なことだが、卿の兄上は既に処刑されたのだよ。国王暗殺犯としてな」
「――――――――そんな、ばかな――――」
「残念なことではあるが、それが事実だ」
「それでは、それでは話が違う!私の手で殺させてくださいと、確かにお願いしたではありませんか!!」

 指先から冷たくなっていくのを感じながら、ガブラスは我を忘れて叫んだ。薄く笑いながら軽く溜息を吐くと、ヴェインは席についた。そして純白の手袋をはめた指先を優雅に組むと、幼子を諭すような口調で言葉を綴った。

「此度の件、万が一にも外部に漏れるようなことがあってはならないのだ。なにしろ、国一つがかかっている。窮鼠猫を噛むという。小煩い鼠どもに尻尾を掴まれては、元も子もないではないか」
「しかし!」
「確かに卿の願いは聞いたが、必ず叶えられるとは約束していなかったはずだが。今言ったように、事は急を要した。卿が釈放されるのを待っている余裕はなかったのだよ」

 場違いなまでの穏やかな口調で綴られる言葉に、ガブラスは眩暈すら感じ、震える足に力を込めた。間違っても此処で倒れるわけにはいかない。
 あの男が死んだ?
 そう、驚くべき事ではない、あの男は最初から死すべきことが決まっていたのだ。それが少し、早まっただけのこと。自分の手ではなく、他者の手にかかって死んだだけのこと。
 動揺すべきことでは、決して、ない。

「では、あの男の亡骸は―――――」
「皆まで言わせるな、ガブラス。ジャッジマスターたる卿と同じ顔をした亡骸を、そのままにしておくとでも思うのか」

 搾り出すように言ったガブラスの言葉に、今度は掌を反したように侮蔑の色を隠すこともなく、黒髪の主は突き放すように言い放った。

「兄を陥れたこと、よもや今更、後悔しているのではあるまいな」
「いえ、そのようなことは――――」
「なら、良い」

 そう言うと、話は済んだとばかりにヴェインは卓上のペンを取り、書類整理を再開し始めた。

 視界が何処か歪んで見えた。まるで世界そのものが歪んでいるかのようだった。その世界の中で、優雅に文字を綴るその手の白さだけが、不自然なまでに鮮やかに見えた。

 立ち尽くすガブラスの眼前で、ヴェインはふと思い出したように再度、顔を上げた。

「卿の兄上は、敵ながら見事な最期であったぞ。誉れ高き将軍の名に相応しいものであった」
「―――――そう、ですか」
「此度の任務はご苦労だった。分かっているとは思うが、くれぐれも他言のないよう。もう下がっていい」

 それ以上続ける言葉もなく、既に目線を上げようともしない主に、ガブラスは無言で深く頭を下げ、そのまま踵を返した。







 廊下に人影はなかった。耳に痛いほどの静けさの中、ガブラスは一人、立ち尽くした。歪んだ視界が更に狭く、歪んで見える。
 足早に、近くにあった人気のない部屋に入ると、その背を壁に預け、呼吸を整えた。
 動揺すべきことなど、何も起こってない。
 そう、何も。





――――――愛してる、ノア




 突然、耳にこびりついたままの言葉が蘇り、言葉にならない言葉を呻き、ガブラスはその場に崩れ落ちるように蹲った。
 自分を抱きしめていたあの腕の熱が、匂いが蘇る。
 この17年、胸の最奥に押し込めていたものが噴出し、収拾がつかなかった。
 これは自分の望んだ報いだったはずだ。国を裏切り、母を裏切り、自分を裏切ったあの男が死んだのだ。喜びこそすれ、哀しむ理由など、ない。その証拠に、見ろ、涙の一滴も零れてはこないではないか。
 けれど、けれどこの胸に巣食ったやり場のない虚しさを何処にもっていけばいいのだろう。あの男を殺すことで切り捨てられるはずだったこの思いを、一体どうしたらいいのだろう。
 後戻りすることの叶わない道程に自分が居ることを今更のように痛感し、ガブラスはひどく愕然とした。あの言葉を遺した男は、もう、いないのだ。




 どれくらい、そうしていただろう。ガブラスは緩慢な動きで立ち上がった。いつまでも、此処でこうしているわけにはいかなかった。ダルマスカ王国を滅ぼした今、やるべきことは山ほどある。ヴェイン・ソリドールの真意が何か、それもつかまなければいけない。
 けれど、何の為に?
 憎しみを力に変えここまできた。
 けれど、憎むべき相手は、もう、いない。





「ああ、ガブラス、此処にいたのか」

 まとまらない思考のまま部屋を出ると、ちょうど颯爽と歩いてくるドレイスがいた。

「卿の姿が見えなかったから探していたのだよ。ああ、髪を元に戻したのか。それがいい、その方が卿には似合っている」

 そこまで言うと、ふと気付いたようにドレイスは言葉を切った。

「―――――何か、あったのか?顔色がひどく悪いが」
「いや、何も。なんでもない」
「――――――そうか、それならば、いいんだが」
「それより、なんだった?」
「ああ、ラーサー様のことで、ちょっとな。内密の話がある。今、時間はあるか?」
「ああ、大丈夫だ」
「では、私の部屋で。此処でできる話ではないからな」

 声を落してそう言うと、ドレイスは鋭い視線を執務室へと向けた。

「それこそ粛清されかねん。あの兄君達のようにな。ラーサー様こそ、次期皇帝に相応しいお方。ヴェイン殿は野心が過ぎる」

 忌々しそうにそう呟いたが、応じることもなく黙ったまま視線を落しているガブラスに、ドレイスは訝しげな視線を送った。

「やはり、何かあったのではないか?顔色が尋常ではないぞ」
「いや、本当に大丈夫だ。気にしないでくれ」
「しっかりしろ。卿と私でラーサー様をお守りしていくのだぞ。腑抜けていてどうする」

 真摯なドレイスの視線を受け、ガブラスは我に返る思いがして、その視線を真っ直ぐ見返した。

「ああ、分かっている」

 ガブラスの眼を覗き込むようにじっと見ていたが、ドレイスはふと穏やかな笑顔になり、「なら、いい」と踵を返した。





 何の為に――――――?ああ、そうだった。立ち止まっている暇などないのだ。自分には、まだ守るべきものがある。
 何も守ることができなかった、あの男とは違う。
 ガブラスは皮手袋をはめた己の掌を、じっと見つめた。一度は全てを無くした。けれど、この手で守るべきものが、今は、ある。


――――――遠くにいても、お前を守るから、必ず


 こびりついたまま離れない言葉。この手で切り捨てることが敵わなかった。恐らく、一生離れることはないだろう。かつて祈りの言葉であったそれは、自分を縛る呪いとなるだろう。
 それで、いい。
 あの男は、もう、いないのだから。


「それでも、進まねばならないのだな」

 呟くように言ったガブラスの言葉はドレイスには届いていないようだった。
 拳を固く握ると、颯爽と先を歩く戦友の後を追い、ガブラスはその足で血の色の絨毯を踏みしめた。











題引用:東直子「草かんむりの訪問者」より