パイプオルガンのような光のさす部屋にここはどこかとあなたは言った







「ガブラス殿、お部屋でヴェイン殿が待っておられる。急がれよ」

「ヴェイン殿が・・・?承知した」



ガブラスが皇帝の命を密かに受け、皇帝の第三男、ヴェイン・ソリドールの直属に配されたのは、つい先日のことだった。

異例のスピードで一兵卒からジャッジに、ジャッジからジャッジ・マスターへと昇進し、そして今度は直属としてヴェインの側に配されたガブラスに、ヴェイン派のジャッジ達の当たりは強かった。しかし、ガブラスは彼らの憎しみにこもった視線を冷めた顔でかわし、自分の使命に忠実にこなすことのみに集中していた。他の者達がいかに自分を憎もうと、皇帝が実力優位主義を掲げる以上、有能な者を妬みはすれ、手の出しようのないことは分かっていた。

自分の手の中には、もう何も残っていないのだとガブラスは思う。大切なものは全て、零れ落ちてしまった。残っているものは、ただ、兄への憎しみだけだ。生きていく為に、自分の目の前に与えられたことを忠実にこなすことだけが、今の自分には必要なことだった。



「およびですか」

「ああ、ガブラスか。入れ」

扉を開けると、部屋の奥でヴェインが椅子に背を預け、くつろいでいる姿が見えた。入室してきたガブラスを見やったヴェインは、しかしそのまま目線を合わせることなく、視線は窓の外へと向けたまま、黙り込んだ。



ガブラスは己の主、ヴェインとまともに対峙したのはこれが初めてだった。それまで一ジャッジであったガブラスにとって、端整な顔立ちの次期皇帝は、遠くからその姿を見るだけのまさに遠い存在だった。直属に決まった際、任命式で顔を合わせたのだが、その場においても形式的なやりとりが行われただけで、二人きりで話すのはこれが初めてになる。

だからと言って実際のところ、対面を果たしたことを感慨にふけるほどに関心があるわけではなかった。自分が此処にいるのは任務だから、ただそれだけだった。与えられた任務は忠実に遂行しなければならない。これから先、どれだけの時間をこの主の傍で過ごすのかは分からない。けれど、可能な限り信頼を得ておくことが必要であることは、充分に心得ていた。



「ヴェイン様、何か御用ですか?」

言葉のないヴェインに、直立したままガブラスが尋ねると、年の離れた主は目線だけをガブラスに寄越した。その視線の容赦なさに、ガブラスは背中に冷たいものが走り抜けるのを感じた。



「卿は何者だ?」

「は?」

予測しようもない、まったく突然の質問だった。意図が分からず、思わずガブラスは主を見返したが、ヴェインは視線で応えを促すだけだった。その口調からは何の戯れも感じられない。



「――――――いきなり、何者かと聞かれましても」

困惑し、微かに眉を顰めながら、ガブラスは顔が強張るのが分かった。

ヴェインはガブラスがグラミス皇帝から送られてきた監視役であることは知らないはずだ。皇帝はその為に、わざわざ縁も所縁もない自分をその役に抜擢したのだから。周到に準備された皇帝からの密偵に、まだ歳若い皇子が気付いているはずがなかった。

ならば、何故、このようなことをこの皇帝候補は聞くのか。邪な気持ちで信頼を得ようとする己の心を先回りで見抜かれたようで、ガブラスは動揺を禁じえなかった。



「―――――私は帝国に忠誠を誓ったジャッジ・マスターです。そして、今はあなたに忠誠を誓う臣下です、ヴェイン様」

ガブラスは内心の動揺を悟られぬよう、細心の注意を払って問いに答えた。しかしその言葉に何の感慨も受けていないような黒く冷たい瞳が、ガブラスを射抜く。ガブラスは固く握った、皮手袋に包まれたその掌に、じわりと汗が滲むのが分かった。



「―――――思ってもいないことを、よくもそこまでもっともらしくいえるものだな」

 僅かな、しかしガブラスにとって永遠とも思える沈黙の後、ヴェインを薄く笑うと、優雅な身のこなしで立ち上がり、ガブラスの傍に立った。



「では、卿は私にその忠誠とやらを示してくれるのだろうな」

底冷えのする空気が、一瞬にして場を支配した。皇帝の三男であるこの主は、まだ20歳を越えたばかりだ。それなのに、この迫力はなんだと思う。



ガブラスはつい先日、皇帝にこの任を命じられた時のことを思い返した。

「我が息子ながら、末恐ろしいものだ」

ガブラスが部屋を去る際に、確かにそう、父である皇帝は独り言のように呟いていた。



この若き皇帝候補はどこまでを見抜いているのだろうか。自分に向けられる眼からは何も読み取れず、ガブラスは思わず視線を逸らした。



「どうした。敵国に尻尾を振ることはできても、主に忠誠を示すことも出来ないのか」

あからさまな侮蔑の声色に、そして一番衝かれたくないことに触れられ、ガブラスはかっとなって目線を上げた。変わらずに向けられていた、冷たい視線と再び交わる。



ああ、そうか―――――。

その視線に、突然、ガブラスは理解した。

これは、俺の眼だ―――――――。



「―――――私はソリドール家の忠実なる臣下、そして貴方の僕です、我が主よ」

ヴェインの眼を真っ直ぐに見据えてそう言うと、ガブラスはヴェインの前に膝まずき、頭を深く垂れた。



この主は何かを見抜いているのではない。最初から信じていないだけだ。自分だけではなく、何も。20歳を越えたばかりの青年が、何故そうなったのかは分からない。知るつもりも、ない。分かり合うつもりなど、最初からないのだから。ただ、信頼関係などそこにないことを前提として、いかにこの主に仕えていくか。それが、これからの自分に課せられた課題なのだとガブラスは悟った。



「――――――犬め」

 どれくらいそうしていただろう、ガブラスを黙って見下ろしていたヴェインは、低い声でそう吐き捨てると、踵を返した。そのまま最初のように長椅子に身を沈めると、視線を窓へと動かし、そのまま沈黙した。その端整な横顔は、今ははっきりと全てのものを拒絶していた。何も、何も信用してはいないのだ。この主も、そして、自分も。

ガブラスは立ち上がり、深く一礼すると、そのまま踵を返した。



「卿は――――――」

 ふいに後ろからかけられたヴェインの言葉に振り返る。しかし、窓に向けられたままの視線は動かず、続く言葉もなかった。ガブラスは再度深く一礼し、部屋を後にした。










題引用:東直子「青卵」