あおあおと主観がくちづけている脱字だらけの記憶の中で






深い闇があった。



地下なのだろうか、光はなく空気の動きも感じられない。装備を全て奪い取られ、冷たい金属の拘束具で固定された躯は、僅かばかりも動かすことが叶わない。しかし、それが無くてもその躯を動かす気力はバッシュにはなかった。
 全てが悪夢のようだ。自分といた仲間は皆死んだ。国王は暗殺された。しかも、「自分の手」によって。国王はもう、いない。和平交渉は成立することなく、ダルマスカ王国は滅びた。それが、紛れもない事実だ。
 思いを馳せ、堪らず目を閉じる。そこに鮮やかに浮かぶのは、己と同じ顔をした弟の姿だった。一つの魂を分かち合った、半身。道を別ったのはもうずっと前のことだ。こんな形で再会するなど、夢にも思っていなかった。

 これは、報いなのだろうか。国を守れなかった罪。そして、国を捨てた、罪。

 長き空白を経て再び姿を現した半身は、己と同じ姿をしていた。まるでそこに空白も何もなかったかのように。鏡で映したように、互いに最初から一つの存在であったかのように。その眼に、冷たい狂気と憎悪を宿して。時の止まった、ただ過去を見つめる眼だった。


「ノア・・・・・・・」


 その名を呟く。何故か弟に対する憎しみは湧いてこなかった。ただ、哀しみが湧いてくるだけだ。
何処で何を間違えたのだろう。自分も、そしてその半身も。





遠くから微かな足音が聞こえてきた。複数ある中で、先頭を歩くそれは、自分をここに連れてきた粗野な兵士達のものとは異なっている。その音の主を察して、バッシュは頭の芯がすっと冷えるのを感じた。その奥から湧き出るのは、どこまでも冷え切った怒りと、憎しみだった。弟への憎しみは、ない。ただ、哀しみがあるだけ。怒りと憎しみが向けられる先は、別に、ある。


「ヴェイン・ソリドール―――」


 微かな光の中現れたその姿を視界に入れ、呻く様にバッシュは呟いた。無機質な鎧を纏った部下を引き連れ現れたのは、予想を違わず、ヴェイン・カルダス・ソリドール、現アルケイディア帝国王位第一継承者、その者だった。
バッシュは動かない躯の代わりに拳をきつく握り締めた。己の怒りと憎しみの向かう先を、全霊を込めて睨みつける。しかし25歳の若き皇帝候補はそれを軽く受け流し、平然とした顔で見返した。

「私を知っていてもらえているとは光栄の至りだな、ローゼンバーグ将軍」
「殺すべき相手の顔ぐらい把握している」
「さすがはダルマスカ王国の英雄だな。民にも絶大の人気があるようだが」
 そう言うとヴェインは薄く笑った。

「その英雄が国王を暗殺したとあっては、民も悲嘆にくれるしかないだろうな。英雄に裏切られ国を失う。哀れなことだ」
「それで」
ヴェインの言葉を遮るように、バッシュは言葉を吐き出した。

「私に何の用だ?敗戦の将を嗤いにきたのか?」
「とんでもない。私は卿に感謝しているのだよ」

  まるで芝居でも演じるかのように、ヴェインは大きく腕を開いた。黒く波打った髪が揺れる。それはこの暗い房の中にあってさえ、25歳という若さにして既に全てを手にした覇者のようにも見える、威風堂々としたものだった。大袈裟でしかし優雅な身のこなしと心情が異なることは、氷のように冷え切ったその眼が示していた。

「卿には深く感謝している。卿がいてくれたおかげで、此度の計画は全てが恙無く成功したのだからな」
「――――言いたいことはそれだけか?」
「そうだな、とりあえず感謝の意を表して、卿の今後について、少し話をさせていただこうか」
そう言うと、ヴェインは帯刀していた剣を鞘からすっと抜き出した。薄暗い房の中、微かな蝋燭の光を反射して、剣は怪しく煌いた。

「私を此処で殺すのか」
「国王暗殺犯が、正当な裁きの場に立てるとでも思っていたのかね?」

バッシュの喉元真っ直ぐに剣が突き付けられた。鋭い切っ先が喉仏に触れ、微かな痛みと、伝っていく血の筋を感じる。少しの昂ぶりも見られない、けれどそうと決めたら躊躇いもなく己の喉元を突き刺すであろう支配者の眼を、バッシュは真っ直ぐに見返した。
僅かな、そして重い沈黙を破ったのはヴェインの方だった。何処か満足げな表情を浮かべると、静かに剣をひいた。

「卿は、国王暗殺の咎で処刑された。そう公表されるだろう。オンドール候によってな」
 白い手袋を嵌めた手が、優雅に剣を鞘へと戻す。

「だが、卿にはまだ死んでもらっては困るのだよ。とりあえず、今はまだな」
「―――――私を生かしておくこと、いずれ後悔するだろう」
それには応えず、微かに口元を歪めた笑みを零すと、ヴェインは踵を返した。

「卿と次に相見える時があるかどうかは分からないが、その時まで此処で寛いでくれたまえ」
そう言い置き、立ち去ろうとしていたヴェインは、ふと足を止め、振り返った。

「言い忘れていたが」
冷めた眼がバッシュを射抜く。

「卿の弟は、我がソリドール家の優秀な番犬として働いているよ」
芝居がかった口調でそう言うと、ヴェインは先程より更に口元を歪め、再度、バッシュへと近づいた。

「無様だな、卿の弟は」
「何?」
「かつて国を奪われた者でありながら、奪った国に尻尾を振り、あまつさえ私情で他国の滅亡に手を貸すとは。無様としか言い様がない。醜悪だな」
「企てたのは貴様だろう!」

 嘲るようなヴェインの口調に、バッシュは憤った。己を侮蔑されるのはいい。民の期待を裏切り、和平交渉を成すことも叶わず、計略にかかり、此処に居る。それは事実だ。けれど、弟を侮辱されることは許せなかった。
しかし、ヴェインは口元を歪め、明らかな侮蔑の笑みを浮かべた。

「確かに提示したのは私だ。しかし、それを選び取ったのは彼自身なのだよ。私情によって、自らの手で血に汚れた道を選び取った。無様なものだ」

 その瞬間、ふと、バッシュは奇妙な感覚に襲われ、一瞬にして湧き上がった憤りが引いていくのを感じた。眼の前の青年は、いったい、誰のことを言っているのだろう。これはまるで、そう、まるで、自嘲しているようではないか。

「卿も恨まれたものだな。まだ命はあるものの、いまや国を裏切った国王暗殺犯、日の目を見ることは叶うまい。恨むなら、実の兄を裏切った弟を、いや、実の弟を裏切らせた己を恨むがいい」
その言葉に、バッシュは真っ直ぐにヴェインを見つめた。


「それは、誰の話だ?」


ヴェインの表情が強張る。歪んだままの口元、しかし僅かに見開かれたその眼に、バッシュは眼前のまだ年若き青年の、恐らく自身すら気付いていない、素の姿を見たような気がした。
しかし、次の瞬間、バッシュは焼けるような痛みを感じ、思わず呻いた。遅れて、左目の上を斬られたのだと知る。剣筋を見ることも叶わない早業だった。一瞬にして視界の半分が赤く染まり、床に血溜りを作った。

「――――卿の命、既に我が手中にあることを忘れるな」

もはや何も感情の乗っていない声でそう言うと、ヴェインは優雅な手つきで血を払い、剣を鞘へと戻した。冷えた眼がバッシュを見つめる。半分遮られた視界と激痛の中、それでもバッシュは眼を逸らすことなく見つめ返した。
無言で踵を返すと、今度は振り返ることなく、ヴェインは部下を連れ、立ち去っていった。後には静寂と暗闇が戻ってきた。





誰が、何処で、何を間違えたのだろう。

もはや、怒りと憎しみさえ、何処に向ければいいのか分からなかった。どくどくと脈打つ痛みだけが、今ある確かな感覚だった。深く息を吐き、明けることのない夜に、バッシュは静かにその身を沈めた。











題引用:東直子「五夜」