深夜の裏通り、ドルチェットはねぐらにしている店の前に独り座りこんで煙管を吹かしていた。
数時間前まではそれなりに賑やかだった店も今ではただ静かに朝を待っている。
そして、ドルチェットは独り、今はまだ帰らぬグリードを待っていた。
よくグリードは何を言わずふらりと店から姿を消すことがあった。それが夜だった場合、行き先は大抵、女の処だ。
強欲を名に持つ彼は酒も女も人以上に好むため、独り寝をすることはほとんどない。常に誰かと寝ていた。けれどこの地に落ち着くようになってからは部屋に女を連れ込むことはなく、また女の処へ行っても夜を明かすことはせず、必ず夜明け前には戻ってくるようになった。
それを知っているからこそ、つい、店の前でグリードの帰りを待ってしまう。
夜明け前、闇を背負ってふらりと帰ってくるグリードが、「なんでそんな所にいるんだ」とか、「まだ寝てなかったのか」とか、時には「ほら、とっととお前の部屋に行くぞ」など、自分の頭を撫でながら言うのが嬉しくて、独り煙管を吹かして待つのがグリード外出時の日課になっていた。
抱かれている女達に嫉妬していることは充分自覚している。そして、どんなに女達に優しい言葉をかけようとも、グリードが決して女達の横で夜を明かすことなく、自分達の居る場所に帰ってくることに少なからぬ優越感を感じていることも。
かつての自分は誰にも付き従うことはなかった。尊敬できない人物には決して媚びない、従わない。だからこそ上官に常日頃から目をつけられ、しこたま殴られ、挙句の果てに一番過酷な前線に送られ、そして一度死んだのだ。
犬と合成されたからだろうか。それともグリードという人物が自分にとって尊敬に値する人物だからだろうか。
この執着は何だと思う。
そう思いながらも、やはりその人が目の前に居るのが嬉しくて、ただ幸せで。余計なことは考える必要がなくなるのだ。
こうして独り夜更けに待っていることでさえ、何ら苦ではなくただただ幸せだった。
ぷかりと吐き出す煙の向こうに月が透けて見える。
グリードが帰ってくるにはもう少しあの月が傾くことが必要だ。
「早く隠れちまえよなぁ」
そう言いながらまたぷかりと煙を吐き出した。
ヒールの音が聞こえたのはその時だった。
何故今まで気付かなかったのかというくらい近くでその音がしたかと思うと、その足音は店の前、つまりドルチェットの前で止まった。
ぎょっとして見上げると、黒いフードを被った黒髪の女性がそこには居た。店の前で立ち止まり、ドルチェットにまるで気付いていないかのように店の看板を見上げている。その容姿は妖艶という言葉がまさに当てはまった。闇から溶け出してきたような黒い服、黒い髪、黒いフード、そして透き通るような白い肌。その姿のえもいわれぬ迫力に押され、ドルチェットは一瞬ぐっと黙ったが、大切な御主人の店に現れた不審者を見逃すわけにはいかなかった。
「店はとっくに閉まってるよ。酒を飲みたいなら他所へ行きな」
座ったまま見上げて睨み付けたドルチェットにようやく気付いたように女は目をやると、薄く笑った。
「お酒が欲しいんじゃないの。此処の主人に会いたいんだけど」
「今何時だと思ってやがる?」
「あの男が寝る時間じゃないわ」
「此処の御主人が誰だか知っているのか?」
「知ってるわ、強欲。なんでも欲しがる子供じみた男。そうでしょう?」
その言葉にドルチェットは驚いて立ち上がり、女をまじまじと見た。
グリード、その名は強欲。
そうグリードは楽しそうに教えてくれた。
けれどそれを知る者は自分達以外にはいないはずだった。
そう、自分達がグリードに出会う前にグリードが出会っている者以外は。
「居るなら呼んで来てくれないかしら?」
「今は、居ない」
「あら、相変わらず独りで眠れない男なのね」
ドルチェットの驚愕にもまるで気付かないように、女は呆れたように溜息を吐いた。
その言い様はまさにグリードとの関係を思わせるようで、ドルチェットは一瞬にして頭に血が上るのを感じた。
「あんた、何者だ?グリードさんとどういう関係なんだよ?」
言ってすぐ、まずは訪れた用件を尋ねるのが適切であろうと思い、慌てて「何の用だ?」と付け足した。
「昔の知り合い、かしらね」
自分の言葉に顔を赤くしたドルチェットを、初めて関心を向けたように、今度は女がまじまじと面白そうにドルチェットの顔を見た。
「そういう貴方は彼の何なのかしら?」
「俺は・・・!」
ドルチェットは言葉を詰まらせた。
仲間であり、部下であり、でもそれだけではないように思う。いや、そう思いたいだけなのかもしれない。
彼の人はなんでも欲しがるから、自分自身を求められてもそのことになんら疑問に感じず、体を任せた。それもかつての自分なら信じられないことに違いない。けれど確かに今の自分はそれが嫌ではなく、むしろ自分の意思に従っているといっても良かった。グリードに抱かれることを望んでいると言っても良い。いつでもあの笑顔で「愛してる」と囁かれることが至福の喜びだった。
けれど、それはきっと、今頃寝床を共にしている女達にも囁かれているに違いなかった。なんでも求め、なんにでも平等に惜しみない愛情と執着を持つ。それが彼の生き方だった。
愛されていることに何ら疑問は持たないし、愛を注がれる他の対象に嫉妬の念は覚えても不満に思ったことはない。
だがしかし、改めて彼の何なのだと聞かれると、考えてしまう。
言葉にしなければ、疑問を挟む余地のないそのままの関係なのだが、いざ言葉にするとなると、適切な言葉が思い浮かばない。
頭を抱えて真剣に考え込んだドルチェットを、女はさらに面白そうに見た。
「彼のことを好きなのかしら?」
まさに図星をつかれ、ドルチェットは言葉を失った。ますます顔が赤くなるのが自分でも分かった。
しかし、次に女が言った言葉に、一気に血の気が引いた。
「人でなくなった者が人でない者を愛するだなんて、世の中ほんとに『ありえない』ことなんてありえないわね」
「今・・・なんて言った?」
「人でなくなった者かしら。それとも人でない者のこと?あの男お得意の『ありえない』ことなんてありえない?」
「全部だよ!」
「だって本当のことでしょう?」
女は楽しそうに笑った。月明かりに照らされたその唇もその瞳もまるで血のように赤く。
ドルチェットは背筋にぞくりとするものが走った。
「・・・・・・あんた・・・何者なんだ?」
「言ったでしょう?彼の昔の知り合いよ。遠い遠い昔のね」
そう言うと女はまた看板を見上げ目を細めた。
「此処に居るって噂を聞いて訪ねてきてみれば。まぁ、あの男らしい生き方と言えば生き方なのかもしれないわね」
その目はずっと遠くを見ているようで、ドルチェットは黙って立ち尽くすしかなかった。
自分が完全に目の前の女にのまれていることは分かっていた。
グリードと女の間に自分が入る隙間などない関係があるのだということも。
「本人が居ないなら、此処に居ても仕方ないわね。帰るわ。貴方、伝言を頼まれてくれる?」
女ににっこり微笑まれ、ドルチェットは頷くしかなった。
「此処に貴方が居ることを知っているのは私だけだから安心しなさいと。良い子でいたら他には言わないでいてあげるから大人しくしてなさいと。そう伝えて。それと」
女がふっと手を上げ、ドルチェットの頬に触れた。ドルチェットは動くことも出来ず、されるがままで立っていた。
女はそのままドルチェットの耳元に唇を寄せると囁いた。
「闇よりも深く、永遠よりも長く愛していると。そう伝えてもらえるかしら」
そう囁くと女はその身を離し、にっこりと微笑んだ。
こんなに綺麗な笑顔を見たことがないとドルチェットは思った。それはあまりに綺麗過ぎて、「ありえない」ものであるように思えた。
立ち尽くすドルチェットをそのままに、女はコートを翻すと振り返ることもなくそのまま闇へと溶けていった。
ドルチェットは地面に落ちた煙管を拾うこともできず、そのまま立ち尽くしていた。
「そんなとこに突っ立って何やってんだ?」
訝し気なグリードの声に、ドルチェットははっと我に返った。
どうやらあのままずっと立ち尽くしていたらしい。
慌てて煙管を拾い上げると、不思議そうに見ている主人にまず「おかえりなさい」と言った。
「『ありえない』ものに会いました」
「なんだそりゃ?」
「グリードさんを知ってる人です。黒い服に黒い髪の。人じゃないみたいな。綺麗でした」
「おい、もう少し分かりやすく説明してくれ」
「えーっと、俺もどう言ったらいいか分からなくて」
呆れたようなグリードの言葉にドルチェットは慌てた。止まっていた時間が動き出すと、さっきのことがまるで夢のことのように思える。思い返すと、とても現実のこととは思えなかった。
「ほら、ゆっくり喋れ」
グリードに頭をぐりぐりと撫でられ、ドルチェットはほっとして嬉しくなった。
自分でも馬鹿だとは思うが、半分犬だからか、グリードに頭を撫でられるととにかく嬉しくなるのだ。他の奴にやられてもむかつくだけなのだが。
「えっとですね、グリードさんのすごい昔の知り合いだという女がさっき、って言っても随分前だとは思うんですけど、グリードさんに会いに来ました。黒い服に黒い髪で、肌がめっちゃ白くて、目が赤かったです。で、グリードさんは居ないって言ったら、伝言を頼んでいきました」
「なんて?」
「えーっと、此処にグリードさんが居るのを知っているのは自分だけだから、良い子でいたら他には言わないから大人しくしときなさいって。あと、えーっと、言い難いんですけど・・・・・・闇より深く、永遠より長く愛していると」
「これが言われたまんまの言葉だと思います」と言いかけてグリードを見たドルチェットは思わず言葉を止めた。
先ほどまで自分に笑顔を向けていたグリードは、ひどく真剣な眼差しで遠くを見ていた。
それは女が見せた表情によく似ていて。
思わずドルチェットはグリードの腕を掴んだ。
そうしなければ、何処かに行ってしまう。そんな不安に突如駆られたからだ。
現実には「ありえない」ものであるような気がして、その手で確かめずには居られなかった。
グリードは一瞬我に返ったようにドルチェットを見ると、「なんだその顔」と笑った。
「あの、グリードさんが遠くに行っちゃう気がして」
「馬鹿、何処に行くっつーんだよ」
そう言うとまた、ドルチェットの頭をぐりぐりと撫で、そのままぎゅっと抱きしめた。
「それに俺がどっか行く時にはお前らもついて来るんだろ?違うか?」
「違わない、です」
抱きすくめられ、嬉しくなってドルチェットも抱き返した。
犬と合成された躯は人よりもずっと平熱が高くなっている。しかしそれを差っぴいてもグリードの体温は低かった。抱き合う度、少しでも自分の体温が伝わればと思う。
「あの・・・」
「ん?」
「さっきの女、誰なんですか?」
「聞いていいのか分かんないんですけど」と、言い難そうにごにょごにょと言うドルチェットを、グリードはさらに抱きしめた。
「なんつーか、俺の姉貴、みたいなもんかな」
「ええ〜〜っ!?」
まるで世間話でもするようなグリードの言葉に驚いてドルチェットはその身を離そうとしたが、グリードはきつく抱きしめたまま離そうとしなかった。
「そんなに驚くことかよ」
「いや、そりゃだって、驚きますよ。いきなり姉貴とか言われても。それにグリードさんて・・・」
「ホムンクルスってか?だからみたいなもんって言っただろ。姉貴みたいなもんで、昔の女だよ。ずっとずっと昔のな」
グリードが今どんな表情でいるのか、それを見たかったがグリードに抱きすくめられたままではそれは叶わなかった。ただそれ以上、その話に踏み込んではいけないような気がして、黙ったままグリードをさらにぎゅっと抱きしめ返した。
昔の女と言われて何も思わないわけではなかった。
けれど、今目の前に愛しい人が居る。それだけで満足だった。
過去も、未来さえも今に比べたらどれだけちっぽけな存在だろう。
「自分の部屋に戻るのめんどくせぇな。お前の部屋行くぞ」
「あ、はい」
突然その身を離され、扉の奥に消えようとするその背中をドルチェットは慌てて追った。
扉の外にはただ、闇だけが残った。
題引用:SUPERCAR