君の見る夢は誰が為のものか






「マース」

囁くような声で呼ばれて振り返ると、見慣れた戦友の顔が其処にはあり、ヒューズは身を起こした。一日の戦を終え、些末な雑務を終えた後、ようやく毛布に潜り込んだところだった。埃にまみれたテントの中、他の戦友達の微かな呼吸音が聞こえている。戦場における一時の気休めのような休息時間を邪魔したくはなくて、音を立てないように静かに毛布から出ると、入口から中を覗き込んでいる戦友を促し外に出た。

「どうした、こんな時間に」

言いながら手にした眼鏡をかける。戦場にあるそれはやはり埃っぽく、視界の全てが灰色に見える。それを眼鏡のせいにしてしまえる自分は、直にこの灰色の世界と対面する戦友達より幾分かマシではないかと他愛もないことを考えた。
眼前に立つ戦友は煤けた上着を右手に持ち、左手には酒瓶を二本持っていた。

「さっき手に入れてきた。飲まないか?」

そう誘われ、ヒューズは一も二もなく頷いた。前線であるこの場所では、アルコールの類は常に手に入るというわけではない。そんな中で出世街道を直走る戦友が通常の兵士達より容易に入手可能であることは知っていたから、誘われれば素直に応じていた。酒でも飲んでなければやってられない、此処はそういう場所だ。さらなる最前線で戦っている兵士達の方がよりアルコールを欲するのではないかと思うのだが、あまりに長期化した戦の中で、一兵卒でしかない彼らに今与えられるのは粗悪なドラッグの類だけのはずだ。それに異を唱えるだけの地位も気力もましてや理由さえも、ヒューズにはなかった。






二人黙ったままテントを離れ、小さな焚き火の側に腰を下ろした。慢性化した戦は劇的に戦局が動くことはほとんどなく、膠着状態が続いている。その為、夜ともなると見張り以外はあらかたの兵士が眠りにつき、各々のテントから時折話し声が聞こえる以外、周りに人はいなかった。兵士達が焚き火を囲み、互いに鼓舞し合い、酒を酌み交わしたいつのことだったか。7年という月日はあまりに長く、ヒューズが前線に送られた時には既に空気そのものが疲弊し切っていた。それでも戦は続く。泥沼化したこの戦が終わる日が来るとは到底思えなかった。ただ、己の勤務が後方支援部隊に異動になるのをひたすらに待つのみだ。

渡された酒瓶を受け取ると、瓶ごと呷る。アルコールが喉を焼くのがひどく心地良かった。隣を見ると、何も言わず炎を見つめる戦友の姿が其処にあった。士官学校からの付き合いで常に共に時を過ごし、こんな所まで一緒に来た。血と硝煙と埃の匂いに充ちた世界で、一日の始めにその日生き長らえることを願い、一日の終わりに命があることに安堵し、また次の日の命を願うだけ。命の取り合いが主たる目的となるこの場所で、気のおけない友が側に居ることは、どれだけ精神的支えになったか分からなかった。






「マース、お前は人体が何から構成されているか知っているか?」

突然の言葉に、ヒューズは同じ様に炎に向けていた視線をロイに戻した。ロイはいつの間にか手にしていた棒切れで地面に物質記号を書き始めている。
「水、炭素、アンモニア、石灰、リン……」謳うように言葉が紡がれていく。それは自分の答を期待してはいないようだったので、ヒューズは黙ってその言葉に耳を傾け、綴られる記号を目で追った。

「……以上これが人間を構成する物質だ。精神と霊魂と肉体から成ると言われている人体を錬成することはいまだ成されていないが、物理的観点から考えると、これだけのもので人間の体は構成されている。では、我々の周りにある空気を構成している物質はと言うとだな…」

空気中に含まれる物質、それが構成されている数式、その変化のさせ方、それらをロイはただ一心不乱に小さな声で呟きながら地面に書き綴っていた。薄明かりに照らされた地面が見る間に埋められていく。9割以上理解不可能なその話を黙って聞き、その手元を見つめながら、ヒューズは「ああ、こいつは錬金術師だったのだな」と改めて思った。






錬金術師と言う名の科学者。物質を数式に置き換え理解し、分解し、再構築する術を持つ。一錬金術師であるロイ・マスタングという男と知り合ったのは、士官寮で同室になった、それだけの偶然からだ。出会いは偶然。その後の付き合いは必然。何が合ったのか今でもよく分からない。けれど周りにとって鼻持ちならない天才肌であるはずの彼は、自分にとっては不思議となんら疎ましい存在ではなかったし、自分の存在も彼にとっては文句を言いながらも居心地の良い存在になりえたようだった。それ以降、たとえ部屋や所属部隊が替わってもなんだかんだと共に過ごすことが多かった。

出会った時には既に錬金術師だった。とりわけ錬金術を行って何かをしていたわけではなく、一学生にすぎなかったが、術を使える以上、錬金術師と呼んで良かっただろう。空気、さらに焔を操ることを得意とする彼の術は、実用的でありながら破壊的で、そしてひどく、美しかった。普通の炎とは異なる、術によって創り出される焔。学生の時分、何度も説明してもらったが理解できなかった空気と焔の成り立ち、それを操る術。周りを取り巻く全ての物質が、ロイの目には数式に映るのかもしれない。それがどんな世界なのか、ヒューズには検討もつかなかった。


出会って数年の後、彼は配属部隊が異なった自分の知らぬ間に、国家錬金術師になっていた。「軍の狗」と呼ばれるそれになりたがる奴はそう居ない。驚く自分に平然とした顔で「出世するには都合が良い」と笑った。ロイの中に「大総統になる」という大それた野望があることを知ったのはその頃だ。「何故そんなものになりたいのか」その問いに対する答はいまだに得られていない。けれど、他の人が言えば冗談にしか聞こえない野望も、彼にとってはしごく実現可能なことのように思えた。彼が望むならば、自分は出来うる限りの助力をしよう、何故か自然にそう思った。






今は学生でもなんでもない、一軍人としてのロイの口と手が数式を紡いでいく。学生の時と同じように、彼の用いる術はヒューズにはやはり理解できなかった。ただ、それを今自分に語る真意は理解できた。

「……という訳だ。マース、ここまでは理解できたか?」
「ああ」
「ほぅ、それは凄いな。学生の時は何度説明してやっても理解できなかったのにな。では、何が理解できたのかお前の言葉で説明してみろ」

今やヒューズの足元さえ、びっしりと数式で埋まっていた。ロイは棒切れでそれらを指し、ヒューズを促した。地面に綴られたそれをぼんやりと眺めたまま、ヒューズはそれから視線を外せずにいた。自分には理解不能な世界。数式の中に在る、彼だけの術。




「俺が分かったのは、お前はお前の錬金術で人を殺すことが出来るってことだよ。たとえお前が望んでいなかったとしてもな」

そう言ってゆっくりと顔を上げ、ロイを見やった。炎に照らされ陰影が色濃く出たその顔からは、何ら表情が読み取れなかった。

「軍令が、出たんだな」

その声はヒューズ自身が意図した以上に低く、そして掠れていた。酒瓶を持つ手が微かに震えることに無性に苛立ち、空いた手で握り締めた。

「此処へは一軍人として参戦したんだがな。明日から私は一軍人ではなく、一兵器として参戦することになったようだ」

揶揄するように口元に笑みを浮かべ、ロイが言った。微笑む顔は、それでも目が笑ってはいなかった。

「先程、全国家錬金術師に軍令が下った。錬金術をもってイシュヴァールを殲滅せよとのことだ。元々術の軍用化を企んでいたらしいからな。実用性を試すつもりなんだろう」

そう言うとロイは酒瓶を一口呷った。ヒューズは何も言えなかった。言える言葉など、何もなかった。兵器の存在意義、それは破壊以外にありえない。命を奪う為だけに存在するモノ。共に歩いてきた友に、それになれと軍は言っているのだ。






 

イシュヴァールに来て、ヒューズ自身もう随分の時が経つ。いや、実際にはそれほどの期間は経っていないのかもしれない。それでも、そこに永久の地獄を見るには充分な時間だった。軍人が戦場で戦う相手は敵国の軍人、或いは国内のゲリラ、そう思っていた。だが実際に初めて飛び込んだ戦場で待っていたのは、制圧とは名ばかりの虐殺だった。殺そうとする自分達、殺されまいとして抵抗する人々、そしてそこに更なる屍の山が築かれる。

 初めて子供を殺した夜、吐き気が止まらなかった。吐ける物を吐き尽くし、胃液だけになってもまだ吐いた。少年兵だった。心底怯えた顔で、けれど手には手榴弾がしっかりと握られていた。殺さなければ殺される、だから、撃った。

 撃ったことに後悔はない。そうしなければ自分だけではなく、仲間全ての命が危険に晒されていただろうから。けれどそれは平気だということと同義にはならなかった。少年の死に顔は今でも瞼に焼きついて離れない。ひどく怯えた、哀しそうな虚空の瞳を、生涯忘れることはないだろう。

何の為の戦いか、何の為の殺戮か、そこに正義はあるのか、正義とは何か、そんな考えるだけ無駄なことを考えることは随分昔に放棄した。軍人として、与えられた任務をこなすことだけを考えた。けれど、と思う。それでも自分は人間だった。人間として此処に在る。押し殺していたとしても感情だってある。兵器になるということは、それさえも無くして殺せということだ。一人の人間の力では到底届かないだけの数の人間を、殺害せよということだ。一人の人間には背負いきれない数の、あの虚空の瞳に苛まれよということだ。

 

いつかはくるとは思っていた。長引き、膠着状態の続く戦。それを打破するためには、終結させるためにはより強力な兵器が必要なのは明らかだった。人間兵器と成ること、ロイ自身、覚悟していたに違いない。けれど、覚悟することと実際に現実として突き付けられることには雲泥の差がある。ヒューズには今のロイの心中を本当に理解することなど、到底不可能なことのように思われた。当事者ではない、自分の膝が微かに震えているのが、妙に白々しく見えた。


「ロイ」

 呼ぶと、ロイは視線だけを寄越した。まだ学生だった頃、凛として前を見つめていた瞳は微かに濁って見えたが、眼差しの強さだけは変わっていなかった。

「死ぬなよ」

 ヒューズの言葉にロイは不思議そうに首を傾げた。

「マース、私が殺しに行くんだよ。遠くから爆発を起こすんだ。私が死ぬわけがない」
「分かっている。だから、死ぬな。自分で自分を、殺すな。お前が死んでいい理由なんて、ない」

 真っ直ぐに瞳を見つめ返すと、その濁った瞳は僅かに見開かれ、そしてふっと息を吐き出すようにロイは微かに笑った。今日初めて表情らしい表情が浮かんだように思えた。その笑顔は、何故だかひどく、哀しく見えた。

「死ぬはずがないだろう。私は大総統になるのだから」

 一瞬の間の後、そう言うとロイは静かに立ち上がり、手にした酒を一気に飲み干すと酒瓶を炎の中に放った。安っぽい硝子が割れる音が聞こえたが、すぐに炎に飲み込まれた。

「もう寝よう。明日も早い」
「ロイ」
 ヒューズは座ったまま振り返り、立ち去ろうとする友に再度声をかけた。

「お前は、なんで大総統になりたいんだ?」

 学生時代にも一度だけ聞いた問い。その時彼は笑って「なんとなく」と言った。それから問うたことはなかったし、知りたいとも思わなかった。ただ、そう望むならば、その道を進むというならば助けてやりたいと思っただけだ。
 ヒューズの言葉にロイは立ち止まった。やがてゆっくりと振り返り、にやりと笑った。

「軍に所属する女性の制服を全てミニスカートにするためだよ」

 一瞬絶句し、眼前で笑う友を見た後、ヒューズは同様ににやりと笑った。ロイがしたように酒を飲み干すと炎の中に投げ込む。

「それを聞いちゃあ、俺も死ぬ気で助力するしかないな」
「そうだろう。死ぬ気で付いて来いよ」

 二人顔を見合わせて、笑った。