飛び交う人の批評に自己実現を図り戸惑うこれの根源に尋ねる行為を忘れ
 此の日々が訪れた窓の外には誤魔化しの無い夏 描かれている
 吹き荒れる風に涙することも 幸せな君を只願うことも
 泣き喚く海に立ち止まることも 触れられない君を只想うことも 同じ







「同じ夜」







 雨が降っていた。夜の帳の中、叩き付けるような雨が全てを遮断しており、ワイパー越しに見る風景は目を凝らさなければ数メートル先しか見えず、男は軽く舌打ちすると、目線は前方を這わせたまま、その躰をシートに押し付けアクセルを踏み込んだ。つい先ほどまで車外に在った躰はぐっしょりと濡れそぼっており、全身から滴り落ちる雫は、男を不快にさせた。己を濡らすその雫が、決して雨だけによるものでないことを胸の痛みが示していた。
 油断したわけではなかった。相手の腕が見事だったという他ない。豪雨の中翻ったその刃で右肩から胸を長く切り裂かれ、紙一重で致命傷にはならなかったものの、引きちぎり胸に当てた袖を、その血は瞬く間に真っ赤に染めた。 生暖かい液体が胸から腹、下肢へと伝わっていき、それはさらに男を不快にさせた。そこかしこが雨で濡れているのか血で濡れているのか、薄暗い車内では判別つけようもない。その両方が混ざり合っているであろう己の今の様を想像するだけで気が滅入った。
 失血のためか視界がいやに狭く見える。胸元は灼熱の炎を抱きしめているかの様にひどく熱く、どくどくと脈打っているのが分かるのに、指先は氷のように冷え、全身が気だるく寒かった。このまま寝てしまえばどれだけ楽だろうと心の何処かで考えながら、それでもハンドルを握る手に精一杯力を込める。 とりたてて生への執着があるわけではない。むしろ、自分は死にたがっているのだということは自覚していた。しかし、その想いを嘲笑うかのようにこの躰はどこまでも浅ましく生きることを望むのだ。結局は死ぬのが怕いのだろう。そう思い、男は低く笑った。その僅かな振動さえも胸に響き、痛みに眉をひそませながらも、男は視界に滴り落ちてくる雫を拭った。ハンドルを握るこの現状で意識がなくなれば、それが今生との別れになることは明白だった。死にたいのか、生きたいのか。そんなことを自問するのは後でいい。そう判断すると、瞬く間に流れていくヘッドライトを横目に見ながら、男は更にアクセルを踏み込んだ。





   
 時計に目をやると、すでに日付が変わる時間になっていた。閉め切った事務所には、外の豪雨の音だけがいやに響いていた。川中は手にしていた書類を机に投げると、その身を椅子に沈めふっと一息ついた。普段、残業することはあまりないのだが、月末ともなるとどうしても片付けなければいけない書類がたまってしまう。事務所専属勤務の人員は少なく、また社の方針として基本的に残業は行わせないため、月末だけは川中一人で残業することが稀にあった。
 椅子に躰を沈めたまま今投げ出した人事に関する書類を手に取り直すと、改めて目を通した。川中の経営する店はその分野上、上に立つ人間を除けばどうしても従業員の回転は速くなってしまい、その端々までを川中が把握することは難しい。そのため人事に関しては専務の藤木に全て任せてある。その藤木に確認を取らなければ、書類はまとまりそうになかった。
 再度時計に目をやり、そろそろブラッディ・ドールが閉店する時間であることを確認すると、川中は立ち上がった。藤木に確認を取り、その後に赤提灯にでも誘おう。そう決め、手早く書類をまとめると、人気のない事務所を後にした。


  
 川中が着いた時には、ブラディ・ドールは既にその扉を閉ざした後だった。店の明かりは消え、中に人の気配はなかった。腕時計で確かめると普段なら確実に藤木は居るはずの時間ではあったが、おそらくはこの豪雨で客足も鈍かったのだろう、いつもより早めに店閉めが終わったであろうことは容易に想像できた。
 事務所に居た時点で電話をすれば藤木はまだ店にいたかもしれない。また、今日、事務所で珍しく残業をしていることを伝えておけば、確実に店を閉めた後にでも連絡が入っただろう。そのどちらもしなかった自分に、川中は舌打ちをした。空を見上げると、降り止まない雨が夜の街を覆っている。当てが外れ気が滅入ったが、食事をしないで帰るというのも何故か癪に障る気がして、川中は一人で赤提灯に向かうことにした。



 適当に腹を満たすと川中はマンションに戻った。雨が降る中、一人でのんびりと酒を飲む気分にはならなかった。雨は激しさを増し、視界を遮られ不快感が募る。しかし、マンションに着きエントランスをくぐると途端に雨の音が遠ざかり、空調の調ったその空間に僅かだが不快感が解消された。 最上階の自室に辿りつくと、川中はすぐさま電話にむかった。藤木が何時に寝ているのかは定かではないが、在宅時間であるならば、何時に電話してもすぐにつながることを思うと、決して眠りは深い方とはいえないだろう。可能な限り睡眠妨害はしたくなかった。 無機質なコール音が響く。いたずらに回数を重ねるそれは、二十回を越えても止むことはなかった。三十回を重ねたあたりで、川中は受話器を置いた。いくらのんびり飲むことはなかったとはいえ、それなりの時間が経過している。あの時、既に店が閉まっていたことを考えると、藤木が自宅に戻っていないはずがなかった。勿論、プライベートにまで口を挟む気はないが、全ての楽しみを罪と思っているようなあの様を思うと、誰かと逢瀬しているとは考え難かった。
 夕方会った藤木の様を川中は思い返してみた。普段と何ら変わった様子はなく、小柄な躰をタキシードで包み、いつもと変わらない良すぎるほどの姿勢と無表情な顔で振ったマティニィの味も、いつもと同じものだった。
 別に一刻を争う用件ではなく、明日の朝にでも電話すればすむ話だ。藤木とて家を空けることもたまにはあるだろう。そう思いながらも、予感のようなものが確かに胸の中にあった。わずかな逡巡の後、川中は今入って来たばかりの玄関へと踵を反した。


  
 川中の名義で借りてある藤木のマンションは商店街にあった。あまりに生活感のない男だったからこそ、川中はあえて生活感の溢れるその場所を選んだ。己に提供された部屋について藤木は何も言わなかったが、その目に微かに戸惑いの色を浮かべたのを今も鮮明に覚えている。普通の人々が何気ない日常を送る、どこまでも平凡な情景。あの時折自分を覗き込むように光る硝子玉のような目には、いつもその情景はどのように映っているのだろう。ただ、昼間には生活感の溢れる場所も日付も変わった夜間ともなると、全てが闇に飲み込まれたように音も光もなかった。ただ、僅かばかりの部屋から漏れる光と街灯、それに雨の音だけがそこにはあった。
 車内から見上げると、藤木の部屋の窓に明かりは灯っていなかった。駐車場へと車を回すとそこに車はなく、藤木がまだ帰ってきていないことは明白だった。先程の予感のようなものがさらに強く込み上げ、確信へと変わっていくのが分かった。俗世との関わりをほとんど持っていないと言っても過言ではない男を今も縛るものは、唯一、決して変えることのできない過去だけだった。


 
 藤木が「藤木」と名乗る前に、「立花」という名であったことは知っている。その「立花」も本名かどうかは定かではなかったが、確かなのは「立花」を追う人間は鉄砲玉を合わせると、数知れない程にいるということだった。自分の組の親兄弟を殺した者。その世界では生きていること自体が奇跡、そういう存在らしかった。
 しかし、他から自然と入った情報を除けば、川中は直接藤木からその話を聞いたことはなかったし聞きたいとも思っていなかった。人には領分というものがある。それは踏み込む側から入っていくものではなく、踏み込ませる側が望んだ時に、その分だけ踏み込めばいいと川中は考えていた。藤木が自分から話をすれば聞くつもりはあったが、話してこない以上、川中にはまったく関係のない話だった。川中にとって重要なのは「藤木」が自分の傍にいることそれだけで、「藤木」の中の「立花」に興味はなかった。「立花」を否定するつもりなどない。ただ、「立花」に「藤木」を渡すつもりもなかった。過去は決して変えられないもので、その過去がどんなものであったとしても、人は今を生きるしかないのだ。過去に囚われて未来を閉ざすことが正しいこととは思えなかったし、川中自身もそう生きてきたつもりだった。もちろん、それは決して楽なことではない。全身に冷や汗をかきながら飛び起きることがある、そういう過去を川中も抱えてきた。それでも、たとえどんな過去があったとしても、「藤木」が傍にあることに何の関係もなかった。
 しかし、藤木の過去について、その考えは川中にとってのみであることはもちろん了解していた。藤木が「立花」である以上、現在もなお、その命を追う者が後を絶たないことは、紛れもない現実だった。川中にとって藤木がどれ程重要で、未来へと続く存在であったとしても、多くの者にとって藤木は既に存在しているはずがない、過去のものだった。実際に川中も藤木と間違われ、銃口を突きつけられたことがある。あれから今まで、何もなかった方がおかしかったのかもしれない。いや、川中が気づかなかっただけで、「藤木」が「立花」に戻ったことは既にあったのではないだろうか。川中自身の災厄に関しても、場合によっては川中が気付く前に片付けてしまう男だ。ましてや己の過去からの災厄についてなど、川中に気付かせるはずもなかった。




 激しさを増す雨に視界が遮られる。じわりと上がり続ける動悸を抑えながら、川中は藤木の居場所に思いを巡らせた。「立花」に用がある者が実際に来たとして、事が起こる場所は予測しようがない。ただ、あの時間に藤木が店にいなかったことを考慮すると、それなりに藤木も状況を把握した上で臨んだのだろう。何処で迎えうち、何処へ行ったのか。思い当たる場所はほとんどなかった。ただ唯一思い当たる場所へと、豪雨の中、川中は車を走らせた。






 雨雲が流れていったのか、レナに着いた時には先程までの雨が嘘のように穏やかな雨と変わっていた。川中と藤木が出遭った場所で、藤木のねぐらだった場所だ。現在は川中が所有し、藤木が管理している。川中以外の人間との交流がないであろう藤木が、この街の中で自宅以外に拠点とできる場所は、此処以外はないはずだった。
 車を駐車場に滑り込ませると、案の定と言うべきか、暗がりの中、藤木のスカイラインがうずくまっているのが見てとれた。しかしレナを見やると明かりがまったく点いておらず、海風にやられた店が佇んでいるだけだった。
 車を降り店の扉に手をかけると、鍵のかかっていない扉が軋みながら開いた。暗がりの店内にはまったく人の気配は感じられなかったが、血の匂いが場に充満していた。
 突然、その背に弟を担いで歩いた時の重みがまざまざと蘇り、川中は足を竦ませた。かつて愛した女が、いつでも自分の傍にいた男とその義理の息子が、皆この匂いの只中にあり川中の前から永遠に姿を消した。それは、紛れもない死の匂いに他ならなかった。

「藤木」
 暗がりにむかって声をかけたがまったく応答はなかった。死の匂いだけが唯一、人の存在を示していた。足元に目をやると、扉から零れる僅かな街灯の光に照らされた床には二階へと続く水滴と共に夥しい血痕とおぼしきものが見て取れた。

「藤木、いるのか?」
 二階へも届くように先程より声を張り上げたが、やはり応答はなかった。川中は竦んだ足を今度は躊躇うことなく、血痕を避けながら二階へと運んだ。


「藤木、俺だ」

 二階はむせ返るような血の匂いが充満していた。真っ先に川中の視界に飛び込んできたのは、ベッドの上で蹲る人影だった。カーテンの開かれた窓からの明かりで、辛うじてそれが藤木であることが分かり、さらに自分に真っ直ぐ向けられている銃口の鈍い光が見て取れた。

「こんな時間に何の用ですか?」

 低く押し殺した藤木の声が暗闇から聞こえた。その声とむせ返る血の匂いから藤木自身が傷を負っていることは間違いなかったが、どれほどの傷か、外からの明かりでは判断できなかった。ただ、獣じみた殺気だけが痛いほどに伝わってくるのを感じ、川中は拳を握った。

「書類で分からないところがあってな」
 川中は二階入口に立ったまま言葉をつなげた。

「藤木に聞こうと思って電話したんだが、出なかったんで探しにきたよ。家にいなかったんで此処かと思ってな。とりあえず、部屋の明かりをつけていいか?」

 藤木からは何の応答もなく、ただ押し殺したような息遣いだけが聞こえた。川中は一挙手一投足に注意を払いながらゆっくりと動くと、壁のスイッチを押した。
 明かりを点けると、ベッド上の藤木は一瞬目を細め、すぐさま川中を見据えた。元々白い顔は失血のためかいつも以上に青白く見えたが、目だけは獣のように鋭い光を放っていた。蛍光灯の下その視線に見据えられ、川中は背中に冷たいものが走るのが分かった。向けられた銃口には何の感慨も湧かなかったが、その目にはひどく、恐怖を覚えた。
 あの忌まわしい出来事の前、藤木がまだ此処のバーテンだった頃に川中が店の前でチンピラに絡まれた際、藤木が割って入ってきたことがある。あの時、藤木は何をしたわけでもなかった。何をするでも言うでもなく、ただ静かに立っていただけだ。しかし確かにチンピラは怯えていた。そして、川中も何故か眼前に佇む男に恐怖の念を抱いた。獣のような目を見たわけではない。ただ、横に立ち、感じる気配だけで圧倒された。
 それを忘れていたわけではなかったが、普段の藤木からはそれを伺い見ることはなかった。何処か空虚感を孕んだ、月夜の静かな水面の様な男は、決して他人を踏み込ませない境界線を確かに引いたままだったが、それでも川中と居る時には、最近では穏やかと形容するに相応しい雰囲気すら纏っていた。 今、眼前で息を殺し喘ぐ男は確かにあの夜と同じ匂いがする。いや、あの時の藤木には弱者を前にする強者の確かな余裕があった。此処に満ちる死の匂いは、あの時以上に危険な存在であることを示していた。

 手負いの獣だ。

 川中は改めて、自分が傍に置くことを決めた男の、本来あったであろう姿を認識せざるをえなかった。一体、何人をこの目で見つめそして葬ってきたのだろう。この男が本気になれば、己が御するなど到底不可能なことのように思えた。獣のような目に見据えられ、川中は目を反らさずに見つめかえすのが精一杯だった。
 銃口を川中へと向けたまま、ベッドから僅かに起こされた躰には右肩から胸元にかけてシーツを切り裂いて作ったであろう包帯がきつく巻かれていたが、その下から赤い血が止まることなく滲んできているのが分かった。更に躰や腕、それに床にこびりついた夥しい血痕が失血量を窺わせた。

「俺を撃ちたいわけじゃないんだろう?」
 川中は努めて冷静に言った。

「とりあえず、その物騒なものはしまわないか」
 川中の言葉に、藤木は一瞬我に返ったように僅かに息を吐くと自分から視線を逸らし、緩慢な動きで手の中にある銃を下げた。銃口と視線が逸らされ、川中も軽く息を吐いた。握られていた掌には冷たい汗が滲んでいた。

「医者を呼ばなくていいのか?」
「必要ありません」

 しばしの沈黙の後、発せられた川中の問いに、藤木は即座に低く呟いた。逸らされた視線は、先ほどまでの激しさとうって変わり、物憂さが色濃く出ていて、そのまま戻されることなく手元の銃へと落とされていた。

「俺が此処で倒れていた時に、医者が必要だと言ったのはお前だったよな」
「恐いのは内臓だと言ったでしょう。私がやられたのは内臓ではないですから」
「中がやられてなくても死ぬ時は死ぬさ。それだけ血が出てりゃな」

 そう言うと川中はずかずかと藤木に近づいた。より近くで見るその顔はまるで陶磁の様に白くなっていた。川中が触れようと手を伸ばすと、それまで身じろぎ一つしなかった藤木の躰が、まるで威嚇するかのようにびくりと動いた。

「私に構わないで下さい」
 藤木は銃を握ったまま、視線を合わせることなく気だるそうに呟いた。

「強がりを言っていられる傷じゃないぜ」
「貴方には関係のないことだ」

 鋭い語調と共に、ゆっくりと上げられた藤木の視線が、川中を射抜いた。川中はかろうじてその足を一歩後退させることなく踏み止まった。これほど冷たく激しい、そして虚無感に満ちた感情のない目を見たことはなかった。
 まさに手負いの獣だと思わざるをえなかった。己以外何も信じていない、何処までも孤独な目だった。

「関係ならあるさ。俺は雇い主で、お前は俺の会社の専務でしかも店のフロマネだ」
「ちょうどいい、貴方に渡すものがそこのジャケットに入っている」

 藤木の視線の先にある投げ出されたままのジャケットに、川中も視線を這わせた。おそらく動けないのだろう、藤木がうずくまったままなのを見ると、川中は自らそこに足を運んだ。
 ジャケットにはあまり血がついておらず、切られてもいないところを見ると、やりあった時には脱いでいたのだろう。内ポケットを探ると、そこに入っていたのは丁寧な字で表に「辞表」と書かれたものだった。同じ時間を過ごしている間、いつもこれを胸に入れていたのだろうか。そんなことを川中はぼんやりと考えた。

「それを今、提出します。これで貴方と私は関係がなくなる。そういう約束だったはずだ」
「今は勤務時間外なんだが」
「それなら尚更帰られたらいい」
「受け取らないと言ったら?」
「それこそ私には関係のないことだ」

 藤木の言葉にも目にも、迷いはなかった。川中は返す言葉もなく、小さく息を吐いた。

「そのままじゃ死ぬぜ。死ぬ気なのか?」
「どうでもいいんですよ」
 何の感情も浮かべないままに藤木は呟いた。

「死ぬなら死ぬだろうし、生き残るなら生き残るでしょう。どっちだって構わないんです。ただ、それは貴方には関係のないことだ」

 再度繰り返された言葉に、川中は手にしていた辞表を無造作にジャケットのポケットに突っ込んだ。藤木はその様を黙って見つめていた。

「俺がお前にできることは?」
「何も」

 藤木の感情のない即答に、川中は苦笑せざるをえなかった。藤木はまるで今言葉を発したことが嘘のように表情を変えることなく川中を見つめていた。

「分かったよ」
 川中は苦笑したまま呟いた。しばしの沈黙の後、藤木に背を向けようとした川中はふと振り返った。

「なぁ、藤木。お前にとって、俺はなんだ?」

 その言葉に、初めて藤木の目に感情らしきものが浮かんだのを川中は見た。揺れるように光ったその目は、しかし川中が捉えきる前に覆い隠すように伏せられた。

「・・・・・・さっきまでは雇い主だった。今は、関係のない他人だ」
「そうか」

 視線を外したままの藤木の答えに川中は薄く笑うと、今度こそ藤木に背を向け立ち去ろうとした。その背に今度は藤木が声をかけた。

「明かりは消していってもらえますか?」
 その押し殺した声に川中は振り向かないままに軽く頷くと、部屋のスイッチを切った。暗闇には静寂と血の匂いだけが残った。





 店を出ると川中は近くの電話ボックスに向かった。雨足はまた強くなってきていて降り続ける雨が瞬く間にジャケットを濡らしたが、川中は意に介さなかった。 ボックス内に入ると百円硬貨を投げ込み、かつては押し慣れていた、そしてこれから先、押すつもりがなかった番号を戸惑いなく押した。 何回かのコール音の後、受話器を取る音がした。

「もしもし」
 深夜の電話に対して無難とも言える、不信さと不機嫌さをない混ぜにした遠慮のない声。この声を最後に聞いたのは何時だっただろうかと川中は考えた。実際にはまだ数ヶ月前のはずなのに、もう随分聞いていないような気がした。

「俺だよ」
 受話器の向こうで微かに息を飲むのが分かった。川中は相手が言葉を発するまで、自分を取り囲む硝子に伝う雫をじっと見つめていた。

「・・・・・・今、何時だと思っている?何の用だ」
 しばしの沈黙の後、低く押し殺した声が受話器越しに耳に届いた。

「安心しろよ、別にお前と昔話を語り合いたいわけじゃない」
「御託を並べる暇があったらさっさと用件を言え」

 落ち着いて聞こえる声が、実際にはそれほど落ち着いているわけではないのは分かっていた。逆の立場なら自分も平静でいられないだろうことを川中は知っていた。そういう別れ方を、自分達はしたのだ。

「今すぐ来ることができて、余計なことを聞かず言わずで忘れてくれる外科医を紹介してくれ。生憎俺の知人にはいないんでね」
「ふざけるな。どうして俺がそんなことをしなきゃいけない?」

 怒りを含んだその声は、川中の突然の言葉の真意を掴めずにいるのか戸惑いが透けて見えた。

「なぁ、宇野」
 その言葉を受け流すと、もう何年も口にしていなかった呼び名を川中は受話器に向け放った。

「俺はこれ以上、知った顔が死ぬのを見たくないんだ」

 電話の向こうの主が言葉を失うことは分かっていた。川中はただじっと硝子の向こうの雨を眺め、相手の言葉を待った。
 どれだけの血が流れたのだろう。わずか数日、その間にあまりに多くの血が流れ過ぎた。
 自分の罪と受話器の向こうの男の罪は均しきものだと川中は思っていた。その形は違えど、負うた十字架の罪深さは同じで、その十字架を今相手に突き付けることは、生々しい罪の傷痕を自分に突き付けることと同じだった。結果として多くのものを無くしたその胸を抉る様な痛みを、川中は雨音を聞きながら静かに甘受した。

「・・・何処へ行かせればいい?」
「レナだ」
 搾り出された男の言葉に、川中は簡潔に答えた。

「藤木か?」
「ああ」

 さらに雨足が強くなってきた。狭い空間に、叩きつける雨音がいやに響いた。それに耳を傾けながら、川中は暗がりにいる手負いの獣を想った。今、何を思いながらこの雨音を聞いているのだろうか。少しずつ生を削り取られていく過程の中でただ静かにそれを甘受する獣の姿が、川中にはまざまざと浮かんだ。

「・・・三十分はかかるぞ」
「かまわんさ」
 川中は内ポケットを探ると煙草を取り出し、口にくわえると火を点けた。

「宇野、用件はそれだけだ。切るぞ」
「川中、俺を宇野と呼ぶな」
「俺をそうさせたのはお前だろう?」

 煙草を少しもうまいとは感じなかった。ただ、今必要な苦みだと思った。己も受話器の向こうの男も闇に蹲る獣も、時を同じくしてそれぞれが異なる痛みを甘受しているのだと思うと、川中は奇妙な安らぎと苦しみが込み上げてくるのを感じた。

「・・・俺はお前の店に行くぜ」
「好きにしたらいい。俺は、夕方以外はめったにいない」
「勝手にするさ」

 受話器の置かれる音を聞いた後、川中は静かに受話器を戻した。肺に溜まった煙を細く吐き出す。狭い空間に白い煙が満ちた。




 川中が何本目かの煙草を投げ捨てた頃に、一台の車がレナの前に停まった。中からは神経質そうな痩せた中背の男が、怯えたような顔で降りてきた。川中に目をやると、「あんたが宇野先生に頼んだ人か?」と上目使いに見ながら聞いた。

「そうだ。診てもらいたい奴がいる。なに、そんなに怯えなくてもあんたに迷惑はかけやしない。ただ傷を縫ってそれを忘れてくれればいいだけだ」
「傷も診ていないんだ、手術に成功するかは分からんぞ。それに手術した後で何処かから追われるなんて、私はごめんだ。ほんとに無関係にしてもらえるんだろうな?」
「大丈夫だと言ってるだろう?宇野先生を信じろよ」

 そう川中が言うと、男は黙り込んだ。宇野によほどの恩があるか、弱みを握られているかのどちらかだろう。どちらにせよ、川中には興味がなかった。
 レナに入ると相変わらず人の気配は感じられず、血の匂いだけが充満していた。床にこびりついた血痕に、隣に立った男が引き攣った声を出し息を飲むのが分かった。

「此処でちょっと待っててくれ。怪我人の様子を見て来る」
 暗闇の中で男は怯えたように頷いた。
 先程のように、川中は血痕を避けながら二階へと上がった。階段の軋む音が、妙に耳についた。

「藤木」

 部屋に向かって声をかけたが応答はない。ベッドの上に蹲る藤木は、その小柄な躰を完全にベッドに預け微動だにしなかった。

「藤木」

 再度声をかけながら近づく。藤木は己の肘を抱くようにして、躰を守るかのように丸くなっていた。手にはしっかりと銃が握られたままだったが、その目は固く閉じられ、外からの明かりに照らされた陶磁のような肌は生をまったく感じさせなかった。そっと首元に指を当てると僅かながらも生の脈動が感じられ、川中は気付かない内に安堵の息を漏らしていた。

「藤木、俺だ。起きろよ」
 川中が耳元で囁くと、藤木は物憂気にゆっくりと目を開いた。焦点の定まらないその瞳は、すぐに至近距離にある川中の顔を捉らえたのか僅かに驚愕と動揺の色を浮かべた。

「・・・どうして・・貴方がまだ此処にいるんです?」
 低く掠れた声で藤木が呟いた。

「医者を連れて来た。その物騒なものは仕舞った方がいい」

 川中の言葉に、藤木は憂鬱そうな視線を川中に向けた。先程のような力はない、しかし何処までも暗い、深淵のような色をしていた。

「・・・そんなことを貴方に頼んだ覚えはない。今はもう・・・無関係だと言いませんでしたか?」
「死にたいのか?」
「どうでもいいんです。これも、さっき言ったはずだ」

 藤木はまさにどうでもいいとばかりに、僅かに起こしかけた躰を再びベッドに沈めると、力なく目を閉じた。
 川中はその肩を掴むと、乱暴に引き起こした。胸元にきつく巻かれた包帯代わりのシーツは、外からの明かりだけで真っ赤に染まっていることが分かり、掴んだその躰はひどく冷たかった。藤木は痛みのためか顔を僅かに歪ませたが、声一つ上げることなく、物憂気に川中を見上げた。

「どうでもいいものなら俺によこせよ」
 藤木の闇のような目を覗き込みながら、躰を掴む手に力を込め、川中は言った。

「お前が死にたいならお前の勝手さ。死ねばいい。でも、どうでもいいものなら俺によこせ。お前にとってはどうでもいいものかもしれないが、俺にとっては必要なものだ。失いたくないものなんだ」

 突然、激情が胸を突き上げてくるのを感じた。胸が苦しくなるほどの名をつけようもないそれに、川中は己の顔が歪むのが分かった。

「俺を、置いていくな」

 藤木は何も言わなかった。川中も押し黙ったまま、ただ、僅かに目を伏せた藤木の顔を見つめていた。 しばしの沈黙の後、藤木はその口をゆっくりと開いた。

「・・・私の命を、貴方が必要だからよこせと?貴方の為に生きろと?」
「そうだ」
「勝手な人だ」
「知ってる」
 藤木は目を上げようとはしなかった。じっと手の中の銃を見つめていた。

「このままならお前は確実に死ぬよ。どうせ捨てるものなら俺にくれ」

 藤木の応えはなく、堪らず川中は「藤木」と名を呼び、躰を掴む手に更に力を込めた。生の感じられない冷たい躰を掴みながら、僅かでも己の熱が伝わることを祈らずにはいられなかった。

「・・・私には貴方にそう言われる価値がない」
 吐息のように藤木は呟いた。

「それどころか生きている価値もない。今まで貴方の傍に居たことの方が間違いだったんです。置かれた状況に甘え過ぎていた」
「それは俺が望んだことだ。価値って何の価値だ?俺は他の奴はいらない。藤木がいい」

 それまで微動だにしなかった藤木が僅かに顔を上げて川中の眼を見た。何処までも暗く色のなかった瞳には奇妙な色が浮かび、まるで初めて川中の顔を見たように、藤木はまじまじと川中の顔を見つめた。何かを言いかけるように僅かにその唇を開きかけ、しかしそれをすぐに結び直して先程までと同じように目を伏せた。

「私は・・・」
 沈黙の後、藤木は力なく己の肩にかかる川中の腕に手をかけ言い淀んだ。黙って続く言葉を待つと、軽く頭を振って呻く様に藤木は呟いた。

「・・・私は・・・貴方に出会うべきではなかった」
「だけど、お前は俺に出会って俺の傍にいる」
 呟かれる藤木の言葉に、川中は強い語調で応えた。

「すんでしまったことを言ってもしょうがないじゃないか。これから先、どうするかだ。藤木はどうしたい?死にたいのか?俺は藤木に傍にいてほしい。それだけだ」

 子供の我侭の様な川中の口調に、藤木は初めて微かに苦笑した。川中は黙って肩を掴んだままそれを見つめた。 やがて視線だけを上げ、上目に川中を見ながら藤木は呟くように言った。

「・・・・貴方の前にいるのは人でないものです。人であることはとうの昔に捨てました。いや、最初から人でなかったのかもしれない。貴方には、人でないものを傍に置く覚悟がありますか?」

 発する言葉に確かな逡巡を含ませながら、それでも藤木の目は狂気を孕んだ、しかし迷いのない何処までも真っ直ぐな獣の目をしていた。川中は突然、その目を堪らなく好きだと思った。

「お前が俺を見てその覚悟がないと思えば、いつでもその爪と牙で食い殺すなり、見捨てて何処かへ行くなり好きにすればいいさ。お前が何者かなんて俺にはどうでもいいんだ。過去だってどうでもいい。ただ、俺はお前がほしい。お前が必要なんだ」
 川中の言葉に、藤木は疲れたように、口元で微かに笑った。

「物好きな人だ」
「それも知ってる」
 微笑み返した川中に、藤木は薄く息を吐き出すと、何かに耐えるかのように目を閉じた。

「・・・それなら、今からこの命は貴方のものだ。好きにすればいい」

 そう言うと、藤木は手の中で握り締められていた銃を無言で川中へと差し出した。川中は藤木を掴んでいた手をそっと離すと、銃を受け取り、安全装置を付け直して内ポケットにしまった。ずっと握り締められていた銃には、冷え切っていたはずの藤木の体温が確かに感じられた。
 川中は階段へと歩み寄り、部屋の電気を点けながら階下へ声をかけた。

「ドクター、来てくれ。あんたの出番だ」





 怯えたように上がってきた男は、ベッドに蹲る藤木を見ると、さらに怯えたように息を飲み、助けを求めるように川中を振り返った。

「此処で手術をしろというのか?感染症を引き起こしても私は責任をとれんぞ」
「あんたに責任とれなんて言わんよ。さっきも言ったようにあんたは傷を縫ってくれればそれでいい。その後どうにかなったとしたら、そいつに運がなかっただけのことだ」

 川中の言葉に男は「本当だな?」と呟きながら、恐る恐る準備を始めた。藤木も黙ったまま、傷を蓋っている布を自ら外し始めた。川中が傍に寄り手伝おうとすると、藤木は目線でそれを制した。

「貴方は出ていてもらえますか?」
 感情を伴わない藤木の言葉に、一瞬で恐怖に凍りついた男を無視したまま、川中は頷くと階下へと降りていった。





 川中がスツールに腰掛け煙草を吸っていると、額に汗を浮かべ、疲労を色濃く滲ませた男がゆっくりと降りてきた。無言のまま座るよう促すと男は頷いた。

「何者だね、彼は」
 川中との間にスツールを一つ空けて座ると、呆れたように男は呟いた。

「右肩から胸元まで相当長く刃物で切られていた。幸い、浅く筋組織を切られているだけだったから致命傷にはなっていなかったが、それにしたって出血はひどいし重傷には間違いない。それを、麻酔なしでやれって言うもんだから驚いたよ。どんなに説明しても黙りこくったままで聞かないから麻酔なしで縫合したんだが、結局最後まで呻き声一つ立てなかった。相当ひどい痛みのはずなんだがね」
 理解できないという風に男は首を降ると、気味悪そうに上を見上げた。

「助かりそうか?」
「一応、縫合はすんだし輸血もしたが、あの傷だ。最初にも言ったように、感染症でもおきたらかなり危険だ。まだ予断は許さない状態だな」
「分かった。ご苦労だったな。あんたはもう忘れてくれ」

 そう言うと川中は財布を取り出すと、無造作に一万円札の束を男に差し出した。男は黙ってそれを受け取り、代わりとばかりに薬や包帯を次々とカウンターに並べると「私はもう関係ないからな」と言って男は立ち上がった。

「宇野先生によろしく言っておいてくれ」
 後ろからかけた川中の言葉に、男は振り向かないまま頷くとそのまま店から出ていった。





 川中が二階に上がると、藤木はベッドの上に横たわっていた。その腕には男の置き土産の点滴がつけられていた。川中を見て身を起こそうとするのを手で制しながら、川中はベッド際に腰掛けた。
 藤木の無駄なものが一切ついていない上半身裸の躰には、まるで白い服でも着ているかのように真っ白な包帯がきつく巻かれていた。見える範囲だけで傷痕が無数についているのが分かり、改めて男の生きてきた道のりの険しさは認識せざるをえなかった。さすがにぐったりと躰をベッドに預けた藤木の顔には、疲労が色濃く出ていたが、輸血したためか先程までの陶磁の肌には薄く赤みがさしていた。眼前の男は確かに生きている。そのことが川中は堪らなく嬉しかった。

「医者が驚いてたぜ。その傷で麻酔をさせないって」
「臆病なんです」
 笑みを浮かべた川中に、藤木はつられたように苦笑した。

「臆病?」
「怕いんですよ。一時的にでも自分の感覚が遮断されるのが」
 藤木は目を閉じると呟いた。

「自分の躰が自分の思うように動かなくなる。そうなると、自分の身を守れない」
「さっきまで自分の命をどうでもいいと言っていた奴の言葉とは思えないな」
「矛盾、しているんでしょうね」

 やんわりと藤木は笑った。獣様とした目は既になく、その様からは考えられない穏やかさがあった。思わずその笑顔に引き込まれながら、川中は両極の二面性を持つ眼前の男に、完全に自分がはまっていることを自覚した。
 そっと藤木の頬に手を伸ばすと、藤木は今度は身じろぎ一つすることなくそれを受け止めた。

「俺も怕かったよ。お前が、俺を置いていってしまうかと思った」

 川中の言葉に、藤木は無言で応えた。ただ、先ほどまでの無表情が嘘のように感情豊かな困ったような顔で見つめられ、川中は薄く笑った。普段は実年齢より老けてさえ見えるのに、普段は殺されている表情が表に出るだけで、妙に幼くも見える。 頬にそえていた手をそっと離すと、その手を投げ出されていた藤木の手に重ねた。年相応に骨ばった、普段驚くほど繊細に動くその指先は、ひどく冷たかった。

「死ぬなよ」
 冷たい指先を己の掌で握りこみながら川中は呟いた。

「俺を置いて死ぬな。俺の傍から離れるな。離れる時は、俺を殺していけ」
「貴方を置いて何処へ行くと?私が捨てた命は貴方に拾われた。もう、貴方のものだと言うのに」
「そうだな。俺のものだ」
 川中は微笑むと、握る手に力を込めた。

「痛むだろう。少し休めよ」
「貴方は・・・私を甘やかし過ぎる」

 川中の言葉にかえされた、その声に含まれる苦渋に気付き、川中が目を覗き込むとそれを避けるかの様に藤木は目を伏せた。

「俺は俺のやりたいことをやりたいようにやって、望むことを叶えているだけさ。言うなれば俺は俺を甘やかしているだけだ」
 そう言うと川中はジャケットのポケットから、雨に濡れた辞表を取り出し藤木の空いた手の傍に放った。

「ぐしゃぐしゃになっちまった。使い物にならんから返すよ」
 藤木はそれを掌に握り込むと、黙ったまま窓へと目をやった。

「まだ追っ手はいそうか?」
「二人やりました。通常は二人組なので、多分大丈夫だとは思いますが」
「殺したのか?」
「手当てをしなければ死ぬかもしれませんね」

 淡々と語る藤木の言葉には、悔恨の念を含む、何の感情も浮かんでいなかった。川中は苦笑すると立ち上がり、明かりを消すと再度、藤木の傍に腰かけた。

「寝ちまえよ。躰を治すにはそれが一番だ」

 川中を見上げた藤木の目に、僅かばかりの逡巡の色が浮かんだが、微笑む川中に藤木も躊躇いがちにその表情を穏やかなものに変え、微かに頷くとその目を閉じた。藤木の手に再度己の手を重ねると、川中は窓へと目をやった。降り止まない雨音と波の音だけが、ただ静かに部屋の中に響いていた。











題引用:椎名林檎