鍵を差し込み回すと、かちりと鍵が外れる小さい音が聞こえた。鍵をそっと抜くと扉をゆっくりと開いた。外が雨のせいか、電気の消えた部屋は、いつもより暗く重く感じられた。
この部屋に入る時はいつも妙に緊張してしまう。床を濡らさないように慎重に靴を脱ぐと、壁のスイッチを押した。途端に暗く沈んだ部屋は急に明るくなった。極端に物が少ないリビングと寝室、それにキッチンだけの部屋。整っている、だけどどこか無骨な印象のする部屋。この部屋に住む者は、今はいない。誰も住んでいない、時の止まった部屋。
家主がこの部屋を最後に出て行った時から、すでに一年以上経とうとしていた。それ以来、たまに自分が派遣する者が最小限に掃除する以外、この部屋に触れる者はいなかった。家主が出て行ったままの部屋には、一年以上経った今でも家主の気配が残っているようだった。元々あまり気配のない者だったのでその気配は微々たるものだったが、自分にははっきりと感じられる。
コートを脱いで丸めると腕に抱え、そっとソファーに座った。家主が此処に住んでいた時分には、慣れ親しんだソファー、自分の定位置だった。此処に座るとちょうど台所が見える。この部屋に来ては食事を強請った。いつも苦笑して、それでも子供のような我が侭に応えてくれた。クッションを抱えたまま、自分の我が侭に応えてくれるその背中を見つめていた。穏やかで、今思うと泣けてくるくらい本当に穏やかで、そして幸福な時だった。
もう、その背中は見えない。
この部屋は自分名義で借りた。そして家主がいなくなった今でも家賃は払い続けられ、相変わらず自分の名義でこの部屋は借りられている。この部屋を選んだのも自分だ。普段はひどく無表情なのに、自分を見る時にははっとするほどに柔らかく笑う。その笑顔はあんまりにも儚くて、すぐにでも自分の前から消えてしまいそうで、ひどく不安になった。
だから、人通りの多い街の真ん中の、この部屋を借りた。一歩外に出るだけで、他愛もない日常が溢れている街。其処に住めば、少しでもその存在が、日常のものになるのではないかと思った。他愛もない日常、穏やかな日常。周りの風景に少し居心地が悪そうな顔をして、それでも妙にその空気に馴染んでいた。
夕暮れの日の光が、薄っすらと差し込んできた部屋を見つめる。此処で長い時間を共に過ごしてきた。まさに数え切れない喜怒哀楽が此処に詰まっている。自分の部屋で共に過ごした記憶があまりないことを考えると、おそらくは自分の方が淋しがりやで、自分の方が求めて此処へ足を運んだのだろう。真夜中でも平気で来る自分を、いつも変わりない、少し苦笑気味の笑顔が迎えてくれた。
いいや、違う。
家主の気配を拾いながら、ふと思う。別に自分ばかりが求めていたわけではない。自分の気持ちに対して不器用な奴だったから、自分から求めてくることはなかった、それだけのことだ。その証拠に、夜中でさえ、自分が訪れた時に扉を開けたその顔には、安堵の表情も浮かんでいなかったか。訪れることができない代わりに、訪れられることに安堵していたのではなかったか。
そう思うと自然と笑みがこぼれてしまう。
あの夜から、今までに何度、此処に足を運んだだろう。数ヶ月は近寄ることさえできなかった。あの夜以来、初めてこの部屋に足を踏み入れた時、どうしようもないくらいに泣けた。それまで、一滴の涙さえ零していなかったのに、箍が外れたように何かが溢れてきて、暗い部屋の中で、一人、泣いた。
少しずつ、この部屋に残された気配は消えていく。それと同時に少しずつ、心の中にその気配は沁みこみ、形作られていく。近いうちに、この部屋から家主の気配は全て消えるだろう。そして全て、自分の中に取り込まれていくに違いなかった。そうでなければ、こんなにも身近に感じるはずがない。こんなにも穏やかでいられるはずはない。あの夜、確かに自分の半身は死んだのだから。
部屋を見渡すと、ゆっくりと立ち上がった。ポケットの中で鍵が小さな音を立てた。
玄関に立ち、振り返る。確かに此処に、自分の幸福があった。もう過ぎ去った、二度と戻ることのない、穏やかな幸福が此処にはあった。
扉を閉めると鍵がかちりと鳴った。
そろそろ店に顔を出す時間だった。後を継いだ者が、自分を待っているに違いない。
題・文引用:Masayoshi Yamasaki