いつもの風景







いつもの様に川中は六時半にブラッディドールに来た。いつもの時間にいつもの場所でいつものシェイクしたマティニィ。坂井はいつもと寸分違わぬマティニィを出せたことに内心満足していた。川中はいつもの様に飲み干すと、いつもの様に席を立ち上がった。が、ふいにカウンター横にいつもの様に立っている藤木の方に向き直った。そのままじっと見る。藤木は微動だにしないでその視線を受け止めていた。

 いつもと同じ風景の中、いつもと違う川中の行動。坂井は首を傾げた。藤木と何かあったのだろうか。

 「暖房のせいか?」

 突然、川中が言った。意味が分からず、坂井は言われた藤木の方を見る。藤木は全く表情を変えないでそこに立っていた。

 「そうです」  

 いつもと同じタキシード姿の無表情な顔がそうかえす。

 「お前がそう言うならそうなんだろうな」

 川中はそう言って溜息をつくと、いつもの様に店を出て行った。

 「・・・一体、今のはなんですか?」  

 訳が分からず坂井は藤木に尋ねた。

  「時間だ。仕事に就け」

 藤木は坂井の問いを無視すると、口を動かさずによく通る低い声で言って、いつもの様に奥に引っ込んだ。

 「なんなんだ?」  

 全く訳が分からず、坂井は再度、首を傾げた。



 店の様子は、その日もいつもと変わらなかった。そこそこに居る客にいつもと変わらず女の子がついている光景。外はだいぶ冷え込んできたらしく、カウンターに座った男が外では雪が降り出した事を、意味もなく興奮気味に話している。
「さようでございますか」と馬鹿丁寧なバーテン言葉で適当に相槌をうちながら、坂井はそっと藤木を盗み見た。別段、いつもと変わった様子はない。的確に店全体を把握しているその視線は相変わらずだ。
 ただ、坂井はこの日常から浮いていた、夕方の何げないやり取りが気になっていた。しかし藤木のあの様子からは、それを聞き出すことは不可能である様に思われた。忘れるのが賢明だ。坂井はそう判断した。眼の前では相変わらず、男がこの冬の寒さについてウンチクを言っている。



 坂井が何事もなかったと思い込もうとしたにもかかわらず、再度、いつもと違うことが起こった。閉店間際の店に入って来たのは、夕方カウンターでボンドマティニィを飲んでいた、川中社長、その人だった。一瞬、従業員一同に緊張が走る。川中は気にするなというかの様に、軽く手を振るとカウンターについた。

 「どうなさったんですか?」  

 坂井は内心驚きながら尋ねた。この時間に川中が店を訪れるのは、めったにあることではない。

 「ジンをストレートで」

 川中は坂井の問いに答えないままそう言うと煙草をくわえた。藤木がすっと近づいてジッポを差し出す。川中は何も言わず火をとると一息吸って息を吐き出した。坂井も何も言わず、グラスを差し出す。藤木は軽く頭を下げると、そのまま持ち場へと戻って行った。

 「今日は店締めまでいるつもりだから、俺のことは気にするな」

 川中が坂井に笑いかけた。坂井は黙って頷くしかなかった。やはり、今日はいつもと何か違うらしい。




 閉店後、女の子やボーイは帰り、いつもの様に坂井と藤木が残った。いつもと違うのは川中もいるということだ。あれから藤木と川中は一度も言葉を交わしていない。夕方の様子からすると二人の間で何かがあるのは間違いなさそうだった。

 同じロッカー室で着替えている藤木を、そっと盗み見る。いつもと変わらないと思ったその時だった。突然崩れ落ちる様に藤木がしゃがみこんだ。

 「藤木さん!?」

 慌てて坂井は駆け寄って、助け起こそうと腕に触り、ぎょっとして手を引っ込めた。シャツの合間から出たその腕は、驚く程に熱かった。

 「ちょっ、藤木さん!大丈夫ですか?!」

 再度助け起こそうとする坂井の手を押し戻すと、藤木は低い声で「大丈夫だ」と呟き、立ち上がった。しかしそのままロッカーに縋りつくとずるずると座り込んだ。

 「いや、大丈夫じゃないでしょう!すごい熱じゃないですか!」

 慌てて支えようと伸ばした坂井の手を、今度は後ろから伸びた手が押し返した。そのままその手は藤木を抱え上げる。誰と思う必要もなく、カウンターにいたはずの川中が、藤木の小柄な体を軽々と抱き上げていた。

 「すいません。降ろして下さい。大丈夫ですから」

 驚いて恐縮する藤木を余所に、川中は持っていたコートを藤木の上から被せる。

 「夕方から今までお前の我が儘を聞いてやったんだ。今度は俺の我が儘を聞く番だぞ。大人しくこのまま帰って薬飲んで寝てもらうからな」

 そう言うと川中は、思い出した様に坂井に振り返った。

 「坂井、そういうわけだ。店締めはお前にまかせるぞ」

 そう笑うと、川中は恐縮した藤木を抱き抱えたまま、呆然としている坂井をその場に残し、悠然と店を出て行った。

 つまり。藤木はどうやら、夕方にはすでに熱があったらしい。それを隠した藤木とそれを見抜いた川中。最期まで何にも気付けていなかった坂井が脱力して座り込む中、ポルシェが遠退いていく音が聞こえた。

 「まいったな。勝てねーよ」

 坂井は苦笑せざるをえなかった。