風邪の日







どうやら、風邪をひいたらしい。
 川中はソファーの上でぼんやりと考えていた。
 昨夜は秋山や土崎としこたま飲んで、久しぶりに酔っ払ってしまった。玄関を入ったところまでは覚えているのだが、どうやら ベッドに辿り着く前に居間で力尽きたらしかった。


 「あー、まいったなぁ」

 喉がひどく痛み、呟けどしゃがれた声しか出ない。全身がだるく、節々が痛い。ひどく頭痛がして、頭がぼーっとしている。

 「風邪だな」

 自分の他に誰もいない部屋で、一人、声に出して確認してみる。当然、返答する者がいるはずもなく、妙に物悲しい。
 川中はぼんやりと今後どうすればいいのかについて考えた。
 このままソファーで倒れているわけにもいかない。ベッドまではなんとか移動できそうだが、ベッドまで移動できたところで、風邪が治るはずもなし、事態が好転するようには思えない。しかし、外に出て、諸々の風邪グッズを買ってくる芸当は、到底できそうになかった。

 助けを呼ぼう。

 そう川中は決めた。それが社会に生きる人として一番賢い選択だろう。助け合ってこその世の中だ。人って素晴らしい。
熱のせいか、意味不明なことを考えてるな、自分、と妙に冷静に考えるもう一人の自分を確認しながら、川中は小柄な恋人のナンバーを押した。



 川中エンタープライズの役員でもある恋人は、自分の恋人であることをなかなか認めようとしない。けれど嫌がってる風にはないし、なにより自分がそうと決めたのだから、恋人だといって差し支えはないだろう。
 そう思う川中は、自身の唯我独尊性に少しも気付いてはいない。人はそれを自己中と呼ぶ。しかし実際のところ、川中が恋人と呼んで憚らない相手は実際に川中のことが好きで、しかもその自己中さに惚れているのだから、世の中うまくできているものである。


 コールは三回。いつもの控え目な声で、想い人が電話に出た。

 「藤木か?あのな・・・」
 「分かりました。30分程で行けると思います。部屋は暖かくしておいてください」
 電話は切られた。

 川中は呆然と受話器を見つめた。

 藤木、お前はエスパーなのか?俺はまだ、なんにも話してないんだが・・・。


 空しく受話器をもどすと、川中は素直に暖房をつけた上で、なんとかふらつきながらもベッドまで辿り着き、倒れこむと、30分で来ると言った恋人を待つことにした。




 30分経たない内に、藤木は川中のうちを訪れた。ベッドで朦朧としていた川中が、チャイムを鳴らすことなく、合鍵で入ってきた藤木の存在に気付いたのは、その額に冷たい掌がそっと触れた時だった。

 「よぅ、藤木。さっきの電話でよく用件が分かったな」

 玄関から直接来たのか、コートを着たままの藤木の腕には薬局の袋がぶら下がっていた。中にはいわゆる風邪グッズが入っているのが見てとれた。

 「喋らない方がいいです。扁桃腺が腫れてるみたいですね。熱も出てます。スーツは脱がれた方がいいです。今、着替えを持ってくるんでそれに着替えて下さい」
 「あのな・・・」
   「秋山さん達と飲まれて、居間で力尽きられたんでしょう?だからあれ程、酒量は考えて下ださいって言ったじゃないですか。特に最近は朝方冷え込みますから。食欲はありますか?薬を飲むには何か食べられた方がいいです。社長ならおかゆより雑炊の方がいいかと思いますが」

 「あ、うん」
   「ならまず、スーツを脱いで下さい。着替え持ってきます」

 そう言うと藤木はきびきびと部屋を出て行った。

 藤木、やっぱりお前はエスパーなのか?

 川中は呆然と藤木が出て行った扉を見つめた。とりあえず、素直にスーツを脱ぐことにする。のろのろとスーツを脱ぎながら、川中はふと思い立った。完璧なまでの洞察力と状況判断。それはエスパーというより・・・。

 「社長、勝手に出させていただきましたが、こちらに着替えて下さい」

 着替えを手に戻ってきた藤木を、川中はにやにやと見つめた。

 「・・・どうかされましたか?」  
 「いや、お前はいい嫁さんになると思ってな。いつでも嫁いできていいからな」
 「馬鹿なこと言ってないで着替えて下さい。台所をお借りします。雑炊作ってきます」

 呆れた様に言って部屋を出て行く藤木を、川中はにやにやと笑いながら見送った。


 俺は、たぶん日本一の幸せ者だ。


 程なくして部屋に漂ってきた美味しそうな匂いの中、川中は幸福感に浸っていた。




 どれ位眠っていたのだろう。寝苦しさに目が覚めた。体はだいぶ楽になったが、まだ頭がふらつく感じがある。寝ている間にかいた汗がべとついて気持ち悪い。ベッドライトだけの薄暗い部屋の中、ベッド横に目をやると、サイドテーブルにはポカリスエットにミネラルウォーター、切り分けられた林檎、それに着替えとタオルが置いてあった。

 そこに藤木の姿はなかった。

 よく見ると置き手紙が置いてあった。仕事に行く旨が簡潔に書かれた手紙には、起きたら着替えるようにとも書き加えられていた。
 川中は大人しく、汗まみれの部屋着を脱いで汗をふくと、藤木が用意してくれた着替えを身につけ、再度ベッドに潜りこんだ。
 何げなく林檎に手を伸ばし、少し黄色くなったそれを食べる。
 暖かい部屋に置かれていたそれは、少し生温かった。

 川中はそれを剥いてくれた恋人を想った。この部屋には彼のいた形跡がそこかしこにある。自分を想ってくれたであろう、優しさの形跡がある。でも、藤木はいない。

 「藤木ぃ、早く帰って来いよー」  
枕に顔を埋めて川中は呟いた。

 滅多にひかない風邪などひいて、気弱になっているのだろうか。住み慣れたはずの家の広さが、妙に淋しく感じられた。



 玄関で物音がして目が覚めた。先程感じた頭のふらつきはもうない。汗をかいた風もなかった。

 「よぅ」

 川中を気遣ってか、そっと開かれた扉に、川中は笑いかけた。

 「起きてらっしゃったんですか。気分はどうですか?」  
 「ああ、もう治った。絶好調だ」

 そう言うと川中は、額に触ろうと伸ばしてきた藤木の腕を掴むと、そのまま驚く藤木をベッドへと引き倒し、上に被さった。

 「社長」
 藤木は鋭く咎める様に言うと、川中を睨んだ。

 「風邪をひいている時に馬鹿なことはよしてください。悪化したらどうするんです?」  
 「もう治ったと言っただろう?」

 川中は笑いながら額を藤木の額に当てた。外の冷気にあたった額は、冷たく、気持ち良かった。  

 「お前のくれた林檎を食べたら治ったよ。ついでに運動していい汗かいたら完治すると思うんだが、つきあってくれないか?」  

 その言葉に藤木は一つ溜息をつくと、その口元に微かな苦笑を浮かべた。

 「まったく、しようのない人だ」  
 「分かってるさ」  

 そう笑うと、川中は藤木の冷たい唇にそっと口付けた。



 次の朝、川中はすがすがしい思いで目覚めた。昨日の体のだるさは嘘の様に消えている。自分の頑丈さに気分を良くしながら、川中は隣で眠る恋人をそっと抱き締めた。その裸体は暖かかった。いや、暖か過ぎた。

 「藤木?」

 ぎょっとして覗き込むと、明らかに熱で潤んだ瞳が川中を睨みつけていた。

 「・・・社長、うつしましたね?」

 川中は返す言葉が見つからず、ただ頭を下げるしかなかった。  五分後、風邪対策グッズを求めてポルシェがすごい早さで走り去ったのは、言うまでもない。