哀歌







深遠の暗い海から、水面に浮上するように目が覚めた。
ベッドのシーツに吸い込まれるようなけだるさは身に覚えのあるもので、私は数回まばたきを繰り返しゆっくりと横に首を傾けた。
視線の先には、身を起こしてタバコを口にくわえたまま、ぼんやりと虚空をみつめている男の姿がある。
薄暗い部屋の中、サイドテーブルの灯りで照らされたその横顔には、濃い影が落ちていた。
声をかけるべきか、私は一瞬悩み、結局しばらくその横顔を眺めることにした。
ほのかな灯りは裸の筋肉に陰影をつける。若い頃に比べれば落ちたと男は笑うが、かつて痛めつけるように鍛えられた身体は、いまだその名残をとどめている。
この男に先ほどまで縋っていたのだ、とふと思ったが、時が経てば経つほどその感覚は夢のようにあいまいになっていく。
確かにこの背に腕を回していたという証は男の背中に爪痕として残り、その痕を見るといつも疼くように熱が戻ってくる。自分がつけたその赤い痕だけが私をこの男につなぎとめているのだと思うと指先が小さく震えた。
私は思わずそっと自分のつけた爪痕に触れる。わずかに湿り気を残す背中が揺れ、背骨から腰にかけての筋肉が震えるように蠢き、そして男は視線を私のほうへとおとした。


「目が覚めたのか?藤木」
「ええ」
「悪かったな。意識が飛ぶまでやっちまうなんて」
「いいえ。私が望んだことですから」


私がぽつりとそうつぶやくと、川中は笑ってタバコをサイドテーブルの灰皿に押しつけた。そして、私の上へと覆いかぶさってくる。
ぎしりとベッドのスプリングが音を立てて、二人の重さ分深く沈み込んだ。私は下から微笑をたたえたままの川中をみつめた。


「おまえがそういうことを言うから、俺は抑えがきかなくなるんだろうな」
「本当のことです」
「俺はいつかおまえを壊しちまわないかって心配になるよ」
「そんなに簡単には人は壊れません」
「壊れちまうさ。人を壊すなんて簡単なことだ。気がついたらこの手で握りつぶしちまってる。気をつけなきゃな」
「私は、壊れませんよ」


ああ、いっそうのこと、壊れてしまったらどれほど楽なのか。
すでに壊れきってしまった人としての機能はただの残骸としてこの身を形成し、依然壊れることができない何かが自分をつき動かすから、私は完全に人であることを捨てることができない。
だから、すべてを壊してくれと望み、私はこの男の中にあるマグマのような破壊衝動を呼び覚まそうとする。
この男が、そのことにひどく臆病であることを知っている。自制の効かない己の衝動を疎ましく思い、そんな自分を恐れ、そして壊してしまうかもしれない人自体を畏れている。
こんな男の傍にいるべきではないと思うのに、そんな男だからこそ私は離れることができないのだ。


「壊れないから、もっとひどくしてください」


私がそういうと、川中の瞳の奥が暗く光った。
顔を近づけ私の唇を噛み、顎を手できつく捕らえるとそのまま深く舌を差し入れてくる。
私は重なってくる唇よりも、こすれる腕、預けられた胸の重み、自分のものか相手のものかわからないほど汚れた腹の滑りの感触に神経を刺激され、全身が痙攣を起こしたように小刻みに揺れた。
川中は唇を離し、苦笑して、汗によって汚れた手で私の頬を優しくなぜた。


「そういうことを言って・・・・・・俺を、煽るなよ」


川中は困ったように微笑んで、私を抱え込むとそのまま自分の身体の上に私を乗せる。
川中の身体は私よりずいぶん逞しいから、私ひとりの重さなどものともしない。
私は川中の胸に疲労したか身体を預けた。
心臓の鼓動と汗のにおい、少し高めの体温。
伝わってくるそれらすべてが私を息苦しくさせる。この男を感じていることへの悦びが不安を呼び起こす。
つかの間の悦楽なのだ。この時間は蜃気楼のように私を惑わすけれど、所詮私は砂漠を旅する罪人で、いつかはこの身体は干からびて朽ち果てていく。
かつて、親殺しという行為で、この身体をこの世につなぎとめていた唯一の誇りを自分自身の手で打ち壊してから、私は彷徨い続けてきた。
そんな私の前に現れたのが、この川中という男だった。
汚れていると自分をさげすみながらも、だが、私に微笑みかけるその笑顔は、雲間から差し込む光のようにまぶしくて、私はしばらくの間彼を直視することができなかった。
なぜ、川中が私に居場所を与え、名を呼び、私を求めて身を寄せ合うようになったのか。いまだにわからない。
ただ、この空虚な身体に川中という男の毒が注ぎ込まれ、自分が取り返しのつかない病に陥っていくことだけが、妙な焦燥感をもってリアルに感じていたのだった。
そして、それは恐れに近い感覚で、私は川中におぼれていく自分を呆然として眺めていることしかできず、自分を圧倒する川中に憎しみに近い理不尽な思いを抱いたこともあったが、もう、それも手遅れだ。


「藤木・・・・・・おまえ、壊れちまいたいのか?」


そっと川中がつぶやいた。私はそれを触れ合った身体の振動で感じ取った。
川中の顔をみると、眉をよせ泣き出しそうな表情でこちらをじっとみつめている。
私は息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。川中の表情に驚いたのではなかった。ただ、息をしたかっただけだ。


「あなたに・・・・・・壊されたいんですよ」
「俺に?」
「ええ、そう。あなたに」


いつか、確実に来る未来。自分で自分自身を壊してしまう未来。それが訪れる前に、この男が私を壊してしまえばいいと思う。
川中はやはり子供のような表情で首をかしげた。そして、天井を一度仰ぎ見て再び私のほうを見ると、こぼれるように笑った。


「そうか、おまえは俺のことが好きなんだな」
「は?」


私は川中の言葉の意味がわからず、眉を顰めた。
川中と私の間には理解不能の領域が常に存在するが、それは川中にもわかっているのか、首を横にふった。


「わかんなきゃいいさ」
「社長・・・・・・」


やはり私には川中のいっていることがよくわからず、だが、それでいいのだというように川中が痛いほどに強く抱きしめてきたので、私はそれ以上考えることをやめた。
私を抱きしめたまま、川中はベッドの端に押しやられていた毛布を私たちの上にかけた。
ぬくもりが私たちを暖める。


「愛してるよ・・・・・・藤木」


ため息のような声でささやいた川中の声を、眠りに落ちかけようとしている直前に聞いた。
それに答えることはせずに、私は川中の胸に頭を摺り寄せた。
その言葉が、川中の毒そのものであることを、私は知っている。
そして、その毒を食らった私は、このままこの病で朽ち果てていく。私はそれを心底望んでいる。
夢の戸口を叩きながら、私はふと先ほどの川中の言葉を思い出した。そして、なぜだか突然わかったような気がした。
私を恐れさせ、怖がらせ、悦ばせる。そして、私を蝕み、朽ち果てさせる病。
その病の名――それは、きっと恋というのだ。






fin.







題引用:KEN HIRAI









久々に、本当に久々に川藤をいただき感無量です(滂沱)藤木さんたら、どれだけ社長のこと好きなの(萌)あー、やはり川藤は永遠の萌えです。ちょこさま、本当にありがとうございました。もっとください(真剣おねだり)
2007/03/11