「不穏な悲鳴を愛さないで
未来等 見ないで
確信出来る 現在だけ 重ねて
あたしの名前をちゃんと
呼んで身体を触って
必要なのは 是だけ 認めて」



愛してる――独り泣き喚いて
夜道を弄れど虚しい



あたしが望んだこと自体
矛盾を優に超えて
一番愛しい貴方の声迄
掠れさせて居たんだろう





椎名林檎「罪と罰」












闇に降る雨    藤木其のニ












匕首を抜くと、その傷口はぐちゃりと嫌な音を立てた。
血が吹き出すのが見えた。
空は満天の星空で。
雨でも降れば良いのにと思った。
この血を全て洗い流してしまえばいいのに。





立花にもなれなかった。
藤木で在りたいと、生きたいと浅ましく願った。
その手は兄弟の腹を撥ね上げた。



立花でもない。
藤木でもない。
では、今此処に倒れている自分は何者なのだろう。



死ぬことは恐くないと思っていたはずなのに。
死にたくないと思ってしまった心が自分を何者でもない者にした。



負け犬でしかない。
そんな自分がなぜか嗤えた。










遠くで叫び声が聞こえた。
その声にぼんやりと意識が戻る。



誰かが近寄って来るのが分かる。
誰かが話し掛けてくるのが分かる。



「なぜだ?なぜ、刃物を抜いた?」



―――負けたんですよ。
この口は言葉を紡ぐ。





負けたんです。
自分だけが浅ましかったんです。
負けたんです。



でも心は其処になくて。
其の声は耳に届かない。





唯、浅ましくも願う。
あの人に会いたいと、この期に及んでもこの身は其れを浅ましくも願う。
もう藤木ではないのに。
立花としてさえも死ねない身なのに。
浅ましくも願う。



唯、あの人に会いたい。
唯、其れだけ。
死ぬ事は恐くなどない。
あの人が命を吹き込まなければ、遥か昔に尽きた命なのだから。






唯、あの人に会いたい。








「藤木さん、俺だ」



ひどく聞き覚えのある声が聞こえた。
それは心に届いて、浮遊する意識を捕まえる。
ああ。
あれは坂井だ。



「社長は?」



今度は自分の声がはっきり耳に届いた。
ああ、まだ生きている。





「ここにいる。ここにいるぞ、藤木」





人は死を免れる事など出来ない。
譬え、免れる事が出来たとしても、今程の喜びを感じることはないだろう。



唯一つの浅ましい願い。
貴方は其れすらも叶えてくれる。



「やっぱり、会いたかったです」



無意識に姿を探そうとして、自らの眼が閉じられていたことを知る。
見上げた空は相変わらず満天の星空で。
願った姿が其処にあった。
変わらない、あの日のままの姿。
闇に射した光の様に。
貴方が俺を照らしたあの日。





「命、粗末にしないで下さい」
「説教か、こんなになっても」
「あんたは、やりかねん」





「そういう時は、命を棒に振った馬鹿な友だちのことを、思い出す事にするよ。藤木年男って馬鹿野郎をな」





ああ―――――――――――――。





何故。
何故、貴方は何時も欲しいものをくれるのだろう。
自らが欲してると気付いていないものさえ、貴方は何時も与えてくれた。
死の際で唯、貴方に会える事だけを望んだ。
其れだけだったのに。





―――藤木でいたかった。





其の浅ましい願いさえ、貴方は叶えてくれた。



貴方を裏切ったのに。
側に居ろと言った貴方を裏切ってさえ、立花としての生き様を望み、そして、其れすらも適わなかったのに。
其れでも藤木と貴方は呼んでくれる。



「藤木、で死ねますか?」
「当たり前だ。俺と坂井が見てる」



其の声は微かに掠れていた。
泣いてるんですか。
泣かないで下さい。
泣かないで下さい。
俺は、こんなに幸せなのだから。








心が凪ぐのが分かる。
自分の心臓の音が聞こえる。
其れはとても穏やかで。



「いい思い、しました。社長の下で」



真っ黒な空が降ってくる。
もうこの眼は貴方を捉えることも出来ないけれど。
望んだ雨の代わりに空が降ってくる。
其れだけは分かる。
其れは其れで、心地良い。



「ライター」
「えっ、ライターがなんだって?」
「持っててくれ」



ひどく眠たい。
眼を閉じようとして一瞬だけ貴方の姿を捉える。





愛しい人。
こんな俺を、それでも貴方は愛してくれた。



幸せだったんです。
望む事が罪と分かっていても。
貴方の側に居た其の時間は。
やっぱり幸せだったんです。





―――愛してる。





もう声にはならなかったけど。
口が紡いだこの言葉。



貴方に、届いただろうか。













藤木さんにとっては、ある意味で幸せな死に様だったのかなと思います。
唯、遺される者にはあまりにも重い・・・。
2007/02/21