風唄口遊めど
こころ空しいだけ







風唄







ソファーに寝そべって雑誌を読んでいた下村は、ふとサイドテーブルに目をやり、そこに置いてあった写真の袋に気付いた。

「何、お前、写真撮るの?」
 台所の坂井に声をかけながら、写真屋から持ち帰ったままとおぼしきそれを手に取った。

いつもと何ら変わりのない、平日の午後だった。普段、下村は坂井の部屋で出勤前の遅めの昼食をとることが多い。下村が片手をなくした時から坂井が何かと世話を焼くことが多く、結果して坂井が調理担当となっていたためだった。関係を持つようになってからは泊まりこんだままそうなることも増えたが、そうでない日も昼食は一緒にとることが多かった。

「俺のじゃねーよ」
包丁を片手に坂井が顔だけを覗かせた。

「なんか結構前に辞めた子が、店の記録を残せばいいとかなんとか言って店の中インスタントカメラで撮りまくってて、結局、店辞める時にそれを置いてったんだよ。俺が預かってたのすっかり忘れてて、昨日ロッカーん中で見つけて、とりあえず現像に出しただけ。以上」
 簡潔かつ明瞭に一気に説明すると、坂井はまた台所にひっこんだ。

 俺の知らない時代の店か。

 下村はぼんやりと考えて手の中の袋を眺めた。特に何か感慨深いわけではなかったが、雑誌を読み飽きていたこともあって、袋に手を入れた。

「見てもいいか?」
「おぅ。俺も何が写ってんのか知らないけどな」

顔も出さないで坂井が応えた。何を作っているのかは知らないが、坂井の料理の腕は人並みにはあるので、いつも口を挟むことはしなかった。自分では味に興味がないと言っていたが、そのわりにはそれなりの料理を作る。炒め物の様な簡単で大雑把なものが多いあたり男の手料理と言えたが、それでもそこらの女より上手いんじゃないかと下村は密かに坂井の腕を評価していた。



 袋から写真を取り出すと、一枚目に見知らぬ女の子が海をバックに満面の笑みで写っていた。数枚は同じような写真で、なるほどこれがカメラの持ち主らしい。まだ十代のようなあどけない表情で笑う女の子は、夜の店には不釣り合いな感じがした。もっと光の当たる場所が似合う。そんな気がした。
写真をめくっていくと確かに途中から店が写されていた。更衣室での女の子達の様子、店内の装飾品、仕事前のボーイなど、自然な店内の様子が捉えられている。カメラワークは素人そのものだったが、当時の店が生き生きと伝わってくる、なるほど店の記録と言うに相応しい写真といえた。

少なからず感心しながらめくっていた下村は、一枚の写真で手をとめた。
それは一人のタキシード姿の男だった。背はそれほど高くはないだろう。短く丁寧に切り揃えられた髪形で、恐ろしく姿勢良く立っていた。視線はレンズを向いておらず、まっすぐ前方を見据えている。一見すると隠し撮りにしか見えない写真。おそらく、撮った本人もそう思ったに違いない。しかし、まったく隙がないことは下村の目には明らかだった。レンズに気付きながらも、咎める理由も見つからず、どう対処すればよいのか分からない。そんな困惑が透けてみえた。しかし、そんな困惑を孕んでいてなお、写真になってさえ伝わってくる静かな獣の気配に、下村は圧倒された。


これが藤木、さんって奴かよ。


下村がこの街に来る前に逝った男。元極道でこの街に流れ着いた、川中の右腕だった男。そして、今もなお、川中、坂井の心を占め続ける男。



この街に来て、多くの男がその名を口にするのを聞いてきた。しかし、並の男ではなかったことは分かったが、会ったこともない以上、漠然としたイメージを抱くしかなかった。ただ、わずかばかりの畏敬の念と嫉妬にも似た気持ちがあるだけだった。
その男をまさかこんなところで写真とはいえ見ることになるとは。下村はしげしげと写真を眺めた。漠然としたイメージの塊が急に明確な形を伴うのは妙な気分だった。
己が想像していた姿を思い返そうとしたが、すでにそのイメージは霧散していた。

やや広めの額、日本人的な奥二重の鋭い目元、すっきり通った鼻線、結ばれた薄い唇。何より闇を溶かしたような瞳が下村をひきつけた。藤木という男の確かな姿がそこにあった。



妙な感慨に耽りながら、それとなく次をめくった下村は、ぎくりとして写真を取り落としそうになった。
そこに写っていたのは、紛れも無く先程見た藤木だった。スツールに腰掛けた川中が話すのを横で立って聞いている。カウンターの向こうにはそれを眺める坂井の姿があった。それは、当時にはごく当たり前の風景だったに違いない。下村を驚かせたのは、藤木の表情だった。

それはひどく穏やかな顔だった。満面の笑みを浮かべるでもなく、ただ口元に有るか無きかの笑みを浮かべているだけだ。それでも先程の、あの獣のような人物がどうすればこんな表情を見せるというのだろう。
先の藤木はこの街の男達から語られる藤木像をよく表していた。ストイックで闇を負った獣のような男。それが、今見る姿は、それからはあまりに掛け離れた表情だった。驚いたことに、今度は向けられたレンズに気付いた様子もない。安らぎにも似た表情を浮かべた無防備な様はあまりに意外で、その予想だにしなかった二面性に、下村はただ息を飲むしかなかった。

さらに、その視線の先には、写真越しにもその明るさが伝わってきそうな、笑顔で話す川中がいた。確かに川中は普段、少年のように笑う。しかし、つきあいが長くなると、裏にある、川中の抱える闇がより鮮やかに透けて見えてくるようになるのだ。己に第二の左手と人生を与えてくれた川中に対して、下村は坂井に対するのとは異なる、しかし確かな想いがあった。川中の抱えるものを少しでも軽減させようと、坂井と共に影日向なくやってきたつもりだった。

それが今目の前には、下村が切に望み、けれど先にも手に入らないであろうと思っていた、川中の心からの安らぎや確かな信頼感に満ちた表情があった。
今手の中にある写真は失われた過去だ。どれだけ安らぎに満ちた、楽園の様なものであったとしても、所詮過ぎ去ったものに過ぎない。そうと分かっていても、下村は確かな敗北感と以前より明確な嫉妬と畏敬の念、それに、己の知らない失われた時への感傷にも似た念が、強く沸き上がるのを禁じえなかった。



藤木が写っている写真はその二枚だけだった。坂井は何枚かの写真に写っていた。カメラの持ち主であろう女の子に頼まれたのか、少し照れたような仏頂面で女の子と並んで撮ったスナップ写真もあった。その表情は今よりずっと幼く、年相応とも言える若さと明るさがあった。今の坂井の表情を形作るものは、決して重ねられた年月だけによるものではないのは明白だった。この時代から、坂井はどれだけのものを見て何を考え、今の坂井に至ったのだろう。


「おい、出来たぞ」

坂井が両手に器を持って台所から出てきた。炒飯の香りが居間に充満する。

「何呆けてんだよ。いい女の子でもいたか?」
からかうような坂井の言葉に、下村は押し黙ったまま顔を上げた。

「なんだよ」
下村の態度に、坂井は訝し気な表情を見せながら、炒飯をサイドテーブルに置いた。

「藤木さん、映ってた」

再度坂井が口を開こうとしたその時、下村は遮るように言った。その瞬間、坂井の表情が固まるのが目に見えて分かった。

「これ、藤木さんだろ」

坂井に目をやりながら、下村は藤木の映った写真を二枚、机の上に放った。困惑の見てとれる顔と、穏やかな笑み。下村は知らない、しかし坂井はほんの数ヶ月前まで見ていた、今はいない男の顔だった。
坂井は何か言葉を発しようとしたが、結局何も言わないまま、写真を見つめていた。かけるべき言葉が見つからず、下村はただ、黙るしかなかった。

「あのさぁ」
わずかな沈黙の後、坂井は押し殺したような声で言った。

「悪いけど、今日はこれ食ったら帰ってくれな」
そう言うと坂井はおもむろに立ち上がり、寝室へと行こうとした。

「仕事は?」
「いつも通り行くさ」
「分かった」

振り返らない坂井の背に応えると、下村は目の前の炒飯にありつくことにした。いつもは美味しく感じるはずのそれも、不思議なくらい味が分からなかった。