数え足りない夜の足音







  書類の束を机に投げ出し、背もたれへと身を預けると、私の他に誰もいない事務所に、微かに椅子が軋む音が響いた。


 静かな夜だった。昼過ぎまでぱらついていた雨はすでに止んだらしい。窓の外に目をやると、薄雲に隠れた月がぼんやりと見えた。前の事務所から、ここの事務所に移ってまだほんの数ヶ月だ。事務所内には慣れたが、月の見えるその窓辺からの風景は、まだ、私にとって馴染みあるものとは言い難いものだった。

 ゆっくりと立ち上がるとさらに椅子が軋んだ。部屋の隅にある小さなキッチンで、先に帰った女子従業員が淹れておいたであろう珈琲を、ポットからマグへと注ぐと、私は其処に置いてあったサイドチェアに腰掛けた。マグから立ち上る湯気を顎に受けながら、ぼんやりと、事務所を見渡した。狭い事務所は、昼間の人の気配を全て飲み込んだかのように、寒々しく見えた。
以前の事務所に居た者で、今もこの事務所に居るのは私だけだった。皆、私を置いていってしまった。この事務所に居た者だけではない、数少ない、私の人生に関わる者が、数ヶ月前にこの街で起きた事件で、私の傍からいなくなった。



 そう遠くない昔、人を殺めたことがある。惚れた女を守るため、そう言えば聞こえはいいが、結局は私が道化だったにすぎない、あまりにも愚かしい出来事だった。人一人が死んだ、いや、私が殺したことを愚かしいことと片付ける気はない。そう評するしか、そう記憶に留めておくことしか、私にはできなかった。

 愛想がよく、人付き合いがいい、私を知る者はそう言うだろう。ただ、私を深く知る者で、それを私と思う者はいなかった。元来そうであったとも思うが、あの愚かしい出来事は私を人間嫌いにするには十分な出来事だった。人と関わるのは好きではない。ほんの僅かな、私を本当に理解してくれる者が傍にいてくれるのなら、それで私の人生は充分だった。

 その僅かな者が、皆、私の傍からいなくなった。それはほんの数日の出来事で、全てが終わった時の虚無感を、どう表現すればいいのだろう。逝った者もいるし、自ら私の元を去った者もいる。全てを失った私の元に残ったのは、三軒の店だけだった。私は意味のないことと知りながら、自問自答せずにはいられなかった。あの中で、私は何を望み、何を得たかったのだろうと。

今まで、熱病に浮かされたかのように、私はただ走り続けてきた。自分が正しいと思うことを曲げることなく、信念に従い、進んできたと思っていた。
ただ一人、残された場所に立ち尽くしたまま、結局、あの愚かしい出来事から、私は一歩も足を踏み出していなかったのではないかと思えてくる。愚かしい道化のまま、結局何も変わっていないのではないか。正しいと信じ、突っ走り、そして、何を得たかったのかも分からないまま、全てを失った。


一口珈琲を飲むと、苦く熱い液体がゆっくりと体内に入るのが感じられた。マグを覗き込むと、揺れる水面に歪んだ自分の顔が映るのが見えた。

ああ、そうだな。
私は再度窓の外へと目をやった。眼下に走る車の明かりを見つめながら、あの獣のような男のことを思い出していた。
全てを失ったわけではなかった。私の手の中にあったものは全て滑り落ちていったが、新たにこの手が掴める、掴みたいと思う腕が、そこにはあった。

静かな、けれど激しさをもった手負いの獣。

はじめて会った時から、なぜか手に入れたいと思った。理屈ではない、なぜそう思ったのか、私にも分からない。ただ、欲しいと思った。手負いの獣だと知ったのは、後のことだったが、今も詳しいことは知らないし、知りたいとも思わない。本人が話したいと思えば話せばいいだけのことで、私が聞くべきことは何もなかった。不思議な光り方をする瞳を持つその獣に、ただただ魅了されただけだ。
まだこの手の中に全てを掴んでいると思えていたあの時、夢中で口説いた。拒絶は耳に入らなかった。本当に嫌なら逃げればいい。私は私の欲しいと思うものを欲しいと言っただけだ。

欲しいと望み、口説き、私が巻き込まれた事件に巻き込んだ。口では拒絶の言葉を紡ぎながら、それでも私の望むものをくれた。全てが終わった時、私の傍らに居たのはこの男だけだった。全てを失った代わりに、この男を手に入れた、そう思っていた。

ブラッディドールのマネージャーとして傍に置いた男は、その責務をよく果たしてくれていた。私のささやかな楽しみは、仕事の後、たまに店に顔を出して、この男の作る酒を飲むことだった。他の誰のためにもその腕を振ることのない、私のためだけのバーテン。閉めた後の店内で、他愛も無いことを話しながら男の作った酒を飲む。男もまれに、私の隣に座り、自らが振った酒を飲み、私の話に耳を傾けていた。その顔は、僅かではあるが、当初よりも確かに、表情が豊かに、そして穏やかになっていった。きっと本人は気づいていないに違いない、その微かな変化に私は満足していた。過去などどうでも良かった。少しずつ変わっていく男が私の傍に居さえすれば、それだけで良かった。その存在が、どれほど私の心の支えとなったかは、正直私にも分からない。


それはほんの些細なことだった。
いつものように私はカウンターで男の作った酒を飲んでいた。ジン・トニックはちょうどいい塩梅で、私は眼前でグラスを磨く男に目をやりながら、ひどく満ち足りた気持ちでいた。客も従業員も帰った薄暗い店内には、つい先日のクリスマスの飾りが、名残惜しそうにちらほらと残っていた。クリスマスが終わった後にあっても違和感のない飾りではあったが、正月前には全て取り払われるだろう。それを見ながら、私はふとささやかな思いつきを口にした。「来年は店内に大きなクリスマスツリーを飾ってはどうか」と。

その言葉に男の手と表情が一瞬止まった。ほんの一瞬、男の顔に動揺と困惑の色が浮かび、その視線は私のそれとぶつかった。「それもいいかもしれませんね」そう言いながら男は何事もなかったかのようにグラスへ視線を落とし、その手の動きを再開した。


この胸の中にほんの一滴の不安が落ちた。男のその骨ばった、しかし驚くほどに繊細な指がグラスに輝きを与える様を見ながら、私は先ほどまでの満ち足りた気分が急速に冷えていくのを感じた。
その瞬間、悟ったのだ。私は決してこの男を完全に手中に入れられたわけではないということを。私の中にある来年にこの男の姿はあっても、その逆は存在し得ないかもしれないのだという事実は、楔となって私の胸に打ち込まれた。

胸に落ちた不安の一滴は、やがて私の中で大海となり、私を覆い尽くすまでになった。全てが私を置き去りにしていった。何もかもがこの腕をすり抜けていった。代わりに掴んだその腕が、何にも換えがたいその腕が私の手の中をすり抜けていくとしたら、私はどうなるのだろう。




耐え難い情念に襲われ、私はマグを机に叩きつけた。跳ねた熱い液体が私の手にも降りかかったが、それに構う余裕は私にはなかった。

それは恐怖だった。絶対的な孤独に対する恐怖だった。あの一滴が落ちた日から、日に日に膨らんでいく恐怖だった。手に入れたものはいつかすり抜けていってしまう。それは分かりきったことだったのに、どうして私は、あの男はずっと傍に居ると思いこんでしまったのだろう。
手の甲に落ちた滴は鈍い痛みを私に与えた。徐々に広がっていくその痛みは、まるで心の痛みのようで、私は空いた手で甲を握り締めた。皮膚に爪が食い込んだがそんなことはどうでもよかった。

限界だった。
男は少しずつ少しずつ、その表情を穏やかなものへと変えていく。私を見る目には、僅かばかりの親愛の情と優しさが見てとれるようになっていく。以前は私を満たしてくれていたその変化は、今の私には苦痛でしかなかった。

どうせお前もいなくなるんだろう?

男の顔を見るたびそう叫びたくなった。どうせいなくなるのなら、なぜ私が掴んだ腕を振り払わなかったのかと。
それが私の勝手だということは知っていた。私が望み、私が掴んだ腕だ。一度掴んだものがなくなる、それを厭という程経験しながら、それでも私が掴んだ腕だ。

それに喉元まで出掛かるその叫びを、自分は発することができないのだということも知っていた。その言の葉が形を成した時、それを引き金に男が私の手を振り払ってしまったら、そう考えただけで私の舌は凍りついた。
いなくなることに怯えながら、それでもその腕を掴んでいたかった。

限界だ。

そう思いながら、私は壁にかけてある時計を見やった。もうすぐ店が閉まる時間になる。あの男は、いつもと変わらない姿で、私を待っているに違いなかった。私も全てを飲み込んだまま、いつものように男の前で酒を飲むのだろう。何事もないように、この舌は他愛もない話を紡ぐのだろう。

限界だ。

私はマグをキッチンの流しに放り込むと、ジャケットを羽織った。事務所の電気を消すと、薄雲が晴れたのか、月明かりが部屋へと差し込んだ。月明かりに照らされた事務所は蛍光灯の下で見る以上にひどく寒々しく見えた。





fin.







題引用:UA









1巻と2巻のミッシングリング、社長、ダウナー系。社長は喪い過ぎです、本当に。
2006/12/08