静かな時間が流れていた。
アッシュは目を閉じたまま、ギンジの気配を感じていた。じっと座ったまま、こちらを気遣っているのが気配で分かる。眠っていないことは分かっているだろう、けれど、互いに口を開こうとはしなかった。


その時、微かに衣擦れの音が聞こえたかと思うと、そっと遠慮がちに頭を撫でられた。そんなことを人にやられたのは本当に記憶の彼方のことで、内心ぎくっとする。
「子供じゃあるまいし、何をやってるんだ」という言葉が、喉元まで出かかったが、そのあまりの優しい手つきに、アッシュはされるがままになっていた。
代わりにそっと目を開けて、ギンジの顔を覗き込もうとし、アッシュは息を飲んだ。
初めて見る顔がそこにはあった。


「―――なんで、泣く?」
「え?」


綺麗な菫色の瞳から、一筋の涙が流れ、頬を伝っていた。ギンジ自身、自分が泣いていることに気付いていなかったのか、驚いたように軽く目を見張った。
そのどこかあどけなさを感じさせる顔があまりにも儚げで、アッシュが思わず手を伸ばしそっと涙の伝う頬を撫でると、ギンジは堰が切れたように、涙をぼろぼろと零し始めた。
冷たい涙の雫がアッシュの頬に降ってくる。声を上げることもなく、ただ音もなく涙の雫が降ってくることに、アッシュはひどく困惑した。


「何を、泣いてるんだ?」
アッシュは再度言葉を重ねたが、ギンジは無言で天を仰ぎ、その顔を右手で覆った。
それは、初めて見るギンジの涙だった。
いつも笑っていた。振り返れば、いつも変わらない顔で笑っていた。ついさっきだって、変わらずあんなに穏やかに笑っていたではないか。


「―――――どうしようも、ないんですか?」


無言で涙をこぼしていたギンジが、呻くように言った。
今まで聞いたことのないような、苦渋に満ちた声だった。


「何を―――――」
アッシュは言いかけ、突然、その言葉の意味を理解し、絶句した。


「―――どうしようもないことだって、おいらだって……分かってるんです。でも――――嫌だ」
天を仰いだまま、ギンジが叫んだ。


「アッシュさんがいなくなるなんて、嫌だ!!」
アッシュは言葉を失くしたまま、ただ呆然とするしかなかった。
自分はいったい、今まで何を見ていたのだろう。






自分だけが被害者だと思っていた。全てを奪われ、居場所を失くし、今ではその躰さえ失おうとしている。自らの命を懸けてヴァンを止め、世界の崩壊を食い止める。聞こえはいいが、結局のところ、無為に朽ち果てていくのが耐えられなかっただけだ。
とんだ自己陶酔だ。
そんな自己陶酔に強引に付き合わせた。空を飛ぶ翼が欲しかった、ただそれだけ。
その翼がいつの間にか温もりを与えてくれていた。それがあまりに心地よくて、求めるだけ求め、甘え続けてきた。
何処にこんなに激しい想いを隠していたのだろう。どんな想いで、今まで自分の傍にいたのだろう。


「覚悟はできているか」とギンジに問うた。それは、突入自体が成功の確率が低く、ギンジ自身が死ぬ可能性があったから聞いただけのことだ。
アッシュの死を受け入れる覚悟。その覚悟がどれほどギンジにとって苦痛を伴うものなのか、今まで考えたことさえなかった。
もう長くは生きられない。それはギンジに、今まで何度も繰り返し言ってきた。自分はもうすぐ死ぬのだと。
自嘲気味に吐露する己の弱さを、いつも真剣な眼差しと穏やかな笑顔で受け止めてくれていた。それが、どれだけギンジにとって残酷なことだったのか、今まで考えもしていなかった。ただの一度も。
あまりに自分本位な己の甘えを、アッシュはただ呪うしかなかった。






ギンジは天を仰いだまま、子供のように声を上げて泣いていた。ずっと自分の傍にいてくれた、自分だけの翼。ギンジにとっての自分を、今まで考えもしなかった。けれど、自分にとってどれだけ大切な存在だったのか、それは分かりすぎるほど分かっていた。
いとおしさがこみ上げ、アッシュは身を起こすと、震えるギンジの躰をそっと抱きしめた。その躰からは、いつもの機械オイルの匂いがした。


「――――泣くな」
あやすように、背中をゆっくりと撫でる。


「俺が、悪かった。――――別に、絶対に死ぬって決まってるわけじゃない。死ぬかもしれないってだけの話だ。生きて戻れたら、お前のところに真っ先に帰ってくるから」
だから泣くな。そう言って、さらに抱きしめた。


生きて戻ることはないだろう。その思いは今も変わらない。
ギンジに残酷なことを言っていることも分かっていた。あれだけ死ぬと言っていて、いまさら生きて戻るもないだろう。
けれど、それでも、ギンジの笑顔を見たかった。
自分がこんなに穏やかにいられるのはギンジのおかげだ。たとえ嘘でも、互いに嘘と分かっていても、少しでもギンジの心が穏やかであるように、アッシュは祈らずにはいられなかった。


「約束するから。また、お前の処に帰ってくるから。だから、泣くな」
ギンジは何も言わなかった。ただアッシュをそっと抱き返し、その肩口に顔を埋め、子供のように泣いていた。






アッシュが目を覚ますと、そこにはギンジの姿がなかった。身支度を整え外に出ると、アルビオール3号機を整備しているギンジの姿があった。


「あ、おはようございます、アッシュさん」
気配に気付いたのか、振り返ったギンジは、いつもの変わらない笑顔だった。ただ、微かに腫れぼったくなった目が、昨日の夜の気配を残すだけだった。


「―――――準備はいいか?」
「大丈夫です。微調整も完璧。もういつでも飛べますよ」
「そうか」
なんと言葉を続けたらいいか分からず、アッシュは言いよどみ俯いた。


「あれ、なんて顔してんですか?」
はっとして顔を上げると、ギンジが穏やかに微笑んでいた。
「らしくないなぁ。そんなんで突入して大丈夫なんですか?」
「な、なんだと!」
「そうそう、そんな感じ。それくらい元気ないとダメですって」
ちゃかすようなギンジは、それでも穏やかな笑顔で、アッシュもつられて笑った。


「本当に、覚悟はいいか?」
「大丈夫です」
「よし、それじゃあ、エルドラントへ向けて出発するぞ!」
「了解!」


満面の笑みを零すと、ギンジはアルビオールに駆け込んでいった。アッシュも乗り込もうとしてタラップに足をかけ、ふと振り返って空を見た。その空はどこまでも青く、世界の崩壊など感じさせなかった。




どこまでも、ギンジと2人で飛んで行けるような気がした。













今まで見たことない泣き顔を見て
僕は君の手を握ってた
この手を離せばもう逢えないよ君と
笑顔で別れたいから言う
マタアイマショウ
マタアイマショウ






題・詩引用:SEAMO










ギンジが最後に言いたいことを言えたらいいって思っていたので、言わせられてすっきり。ギンジ視点も書きたいなぁと思っています。ギンジにとってアッシュは健気で可愛い、可哀想な子供だと思うのです。
2007/06/27